Bande à pierrot

ティム・バートン、テネシー・ウィリアムズ、アレハンドロ・ホドロフスキー。

カトリーヌ・ドヌーヴら100人の女性による“MeToo運動批判の書簡”を読んで

 

先日開催されたゴールデングローブ賞授賞式。今回女優たち、俳優たちの多くが黒いドレスや衣装に身を包んで登場しました。全世界で広がる『Me Too』のムーブメント。

2017年10月に起こったハーヴェイ・ワインスタイン騒動。セクハラの話を聞いてとんでもないおっさんだなと思いましたし、『パルプ・フィクション』『グッド・ウィル・ハンティング』などの名作を手がけたプロデューサーと聞いてショックを受けました。無名だったマット・デイモンベン・アフレックを見出した男。彼のセクハラ、レイプ、脅迫行為は許されるものではありません、これから彼によって生まれるはずだった素晴らしい作品は観ることはないのかと思うと、少しだけ残念に思う自分もいたことに気がつきました。

 

ワインスタインに関する告発から始まり、どんどん女性たちによる性的被害の告発が広がっていきました。そしてハッシュタグ #MeToo。どんどん広がっていくムーブメントを見て、何か言葉にできない違和感を感じていました。そして昨日(1月10日,11日?)、ネットで目にしたのが『フランスの女優カトリーヌ・ドヌーヴら100人の女優がルモンド紙に書簡を寄稿、#MeToo運動は行き過ぎと批判』という記事。書簡の内容を訳された記事があったので、貼らせて頂きます。

 

カトリーヌ・ドヌーヴら100人の女性が『MeToo』運動を批判

 

この訳を読み、自分が感じていた違和感がやっと言葉にできるような感覚になりました。私はフランスの女優、作家、映画監督ら100人の女性が発表したこの批判声明に関して、賛同する気持ちでいます。

今までこういった問題に関して何か思うことはあっても、うまく言葉にすることができませんでした。意見を持つということもあまりできませんでした。知識が十分にないから、“意見をもたない”ということを選択するということが良い場合もあると思いますが、今回は少し思うことをブログに書いてみたいと思います。

 

MeToo』のムーブメントは、性的被害、セクハラ問題の重大さを訴えるもの。ハリウッドで蔓延していた問題に目を向ける、意識するようになったということはとても必要なことだと思います。しかし書簡にも書いてあるように、“自由に発言できるようになった女性たちの矛先が逆方向へ向かい始めた”ということは感じます。男性たちのことを貶めよう、憎悪の対象にしようといったなんというのでしょう...間違った“フェミニズムの風潮”が少し流れている気がするのです。

 

ゴールデングローブ賞で大勢の女優さんがブラックドレスを着用していましたが、中にはカラフルなドレスを着用した方も。彼女たちに対して、ブラックドレスを着用しないことへの批判が寄せられていました。それに対してモデルのバーバラ・メイアーはこのように語っています。

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「多くの女性たちが今夜、『Time's Up』のムーブメントを支援するために黒いドレスを着ることになる。これはとても重要で素晴らしいイニシアチブだわ。でも私はカラフルなドレスを着ることを決めました。もし今夜の授賞式を自分たちの権利のために立ち上がる強い女性によるゴールデングローブ賞にしたいのであれば、もうセクシーなドレスを着てはいけないとか、ファッションを通して私たちのキャラクターを表現する楽しみを人から奪うことは間違っていると思うから」

 

彼女がブラックドレスを着用しないからといって、“セクハラ問題を重要視していない”“女性にいやな思いをさせた男性たちの味方”ということは断じてありません。100%大多数の人間がやっていることに沿わなくてはいけないのか?なぜそれをしなかったからといて糾弾しなくてはいけないのか?書簡にもある通り、このようなムーブメントにのっからない女性のことを“裏切り者”とするのは全くおかしいことだと思います。そして、100%の同意をできない人のことを徹底的に排除しようとするのは、自由を奪うことであるとも。

 

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今回のドヌーヴさんたちの書簡に全て「そうそう!」と言えるわけではありません。「彼らが犯した唯一の過ちというのは、仕事上の会食の席で女性の膝をさわったり、無理やりキスをしたり、親密な言葉を囁いたりしたことや、性的な意味にも取れるメッセージを、自分に気のない女性に送ったりしたことだけなのです」この“無理やり”というのは(原文を読んでいないので、もしかしたら意味合いは違うかもしれませんが...)“相手が嫌がっているのに”というのを感じ取れるのでセクハラではないかと思いますが。でもここに、国柄や文化の違いは少なからず関係しているのではないかと思いました。フレンチ・フェミニズムに関して興味深い記事を発見したので、また貼らせて頂きます。

 

フレンチ・フェミニズムについて

 

国によって人々の性格も違いますしコミュニケーションの取り方も違いますし、男女の親密な関係についての考え方も違います。ただ文化が違えど“悪”であるのは、“相手の気持ちを考えずに不快な気分にさせること、踏みにじること、傷つけること”。レイプや脅迫なんてものはもちろん犯罪です。それでも“性”に関してはこれは国も文化も関係なく、一人一人全く違うものだからすごく難しい問題なのではないかと思うのです...

 

人と人の“性的な関係”に、“これが正しい”と割り切れるものはないと思います。まず“SM”という性的嗜好もありますし。嫌だと感じることを受け入れてその関係を続ける、という人だっています。親密な言葉を囁いたり、良いなと思う女性を口説こうという行為だとか、そういったもの全てを糾弾すべきではないと思います。セクシーな人がいたらイイ感じになりたいとかこの人とセックスしたいだとか、そう思うことは何も罪なことではありません。無理やりにすることは犯罪ですが。文化の違い、それぞれの性について心について、難しい問題ではありますがずっと女性たちが“私たちはこんなことで傷ついてたの、犠牲者なのよ”という立場にいるべきでないとも思います問題を取り上げることは大切で、罪を犯した人は償い、そして改善されていくことが重要なことです。正義を暴走させて憎悪を暴走させてしまっては元も子もないというか。“弱いもの虐め”の繰り返しになるのではないかと思います。大多数の意見が絶対として、その他の意見を徹底的に排除すべきでないとも。

 

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この書簡では芸術に迫る洗浄化の波についても言及しています。禁じられたエゴン・シーレの裸婦画。バルテュスの『夢見るテレーズ』を美術館から外せという者。ポランスキー作品上映禁止。『夢見るテレーズ』もシーレの裸婦画も、美しいと思うことはダメなのでしょうか...?芸術作品と混同すべきではないと思います。間違った洗浄は芸術を衰退させてしまうと。トリアー作品が女性蔑視か?そんなことはありません。『愛の嵐』は男性に虐げられる弱い女性の話か?私は一つの愛を描いた悲しくも美しい恋愛映画だと思います。『わらの犬』はレイプシーンがあるから上映できなくするか?いやいや、サム・ペキンパーが自分のことを「暴力監督」といった人たちに対するメッセージ映画でもあるでしょう。レイプされても淡々としている『ELLE/エル』はおかしな映画か?あれは一人の人間が徐々に自分を取り戻していく作品でしょう。書簡にもあるように、「女性はこう書かれるべきだ」なんて決められた作品なんて...それは芸術と言えるのでしょうか。

 

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男女問わず性的暴力の問題が解決されること、悪い過去が葬られて前に進むこと、憎しみが膨張しないことを願います。“本当のフェミニズムとは何なのか”“自由とは何なのか”“正義の形とは何なのか”自分で感じた違和感の答えを探しながら、そんなことを改めて考えさせられた日でした。