Bande à pierrot

ティム・バートン、テネシー・ウィリアムズ、アレハンドロ・ホドロフスキー。

【日記】「ライターじゃなくなった時、今までよりもライターになれた」

 

 

 

※ただの日記のようなものです😭

 

 

 

22歳の誕生日前に、“21歳の一年間で学んだ/考えた5つのこと”というブログを書いた。それを読んだ友達がこんなことを言ってくれた。

 

「面白かったよ。あれは萌香にしか書けないよね。

前みたいにweb媒体で記事は書いてないけれど、その時より今の方が“ライター”だよね。」

 

その友達から私はたくさんのことを学んでいるので、そう言ってもらえたのはとても嬉しかったし、読んでくれたのも嬉しい反面かなり恥ずかしかった。笑

 

「前よりも今の方がライターだよね。」

 

すごく考えさせられる言葉だ。“ライター”って言っても、正直どこからどこまでライターと言っていいのかわからない。ニュースを伝えるのは記者さんなのか、ライターか。自分の意見や考えを書き連ねるのはコラムニストか。映画の考察を書くのは批評家さんか。町山さんは“映画評論家”だし...

一昨年から今年までweb媒体で“ライター”として記事を書いていた。海外の間で流行っているコスメは?人気モデルさんのお手本にしたいコーディネートは?あの映画のおすすめするところは?恋人と一緒に観たい映画おすすめ5選は?ファッションのお手本にしたい映画は?

今までに上がっている記事とは差がつくように、映画でもいろいろな視点から記事が書けるように自分なりに考えたし、努力した。音楽やファッションのこともたくさん調べた。でもその友達にもだし、とある雑誌の編集長の方からもこう言われることがあった。「君の文章は自己愛に溢れているわけじゃないし、文法も間違っているわけじゃない。読みやすいと思うよ。だけれど、誰にでも書ける記事なんだよ。」

 

言われた時はよくわかっていなかったし、「えっあんなにいろいろ考えたんにこれ誰にでも書けるんか...」と悲しくなった。笑 でも確かに“もうすでにあることを掘り返しているような”記事だったと今は思う。だから“誰にでも書ける”記事だった。

 

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自分でブログを始めてからは、文章のうまさや良し悪しは置いておいて“自分にしか書けない記事”が少しずつ増えてきたのではないか、と思っている。この前の“学んだこと”の記事もそうだし、映画の考察/感想記事も、自分が思っていることをそのまま書くようになった。個人的な感情も交えて書くようにもなった。今回の記事みたいに、日記代わりとして書くこともあるようになった。でも個人のブログだからと言ってもちろん下調べを怠ったりとかはしたくない。もっと自分らしい記事が書けるように、自然とたくさんのことを今までよりも調べるようになった気もする。

 

TwitterFacebookですぐに拡散できる今、記事を読んでくださった方の反応をすぐに見ることができる。「面白かった」と言ってもらえるとすごくすごく嬉しい。それにたくさんの媒体がある今、“ライターです”と名乗ることはそこまで難しくはない...と思う。だけれど、“社会からライターとして思われること、誰かからその肩書きの人と観られること”と、“自分はライターだ、その職業の者だ”ということは、全然違うのだ誰かから“映画のことを書いているライターさん”と思われるように維持し続けることと、“自分が映画のことを伝える人、考える人”であるように維持し続けることはきっと熱量も全然違うんだ。

 

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“その肩書きじゃなくなっても、自分がそういう人であり続けること”“社会からどう思われるかじゃなくて、自分がそういう風でありたいと思って行動し続けること”私は今年学んだことが多い一年だったけれど、これもそのうちの一つ。“自分はどうなりたいか、どうでありたいか?”ということは、これからもずっと問い続けていきたいと思っている。