Bande à pierrot

ティム・バートン、テネシー・ウィリアムズ、アレハンドロ・ホドロフスキー。

【思うこと】もう “映画ライター” ではいたくない

こんにちは!Moekaです。

 

ライターというお仕事についてお話ししようかと思います。“映画ライター”“webライター”というお仕事について。私個人の意見なので、独り言だと思って読んでいただけたら嬉しいです。

 

今私は21歳、webの媒体で“ライター”をしています。主に映画のことについてかな!

この“ライター”業を始めたのは、一昨年の12月のこと。CELESYの編集長、RenaさんがSnapchatで「CELESYのライターを募集します!」って仰ってて。もともと海外のファッションショーとか見るのも好きだったし、それに“書くこと”はずっと好きだったんです。国語の読解とか長文問題だけ成績が良かったりとか、ちっちゃいころはそれこそ物語なんか書いてたりして。笑 将来は雑誌の編集業に携われたら...なんてその時考えていました。だから「何か学校以外に取り組めることがやりたい!」と思って応募し、CELESYライター1期生に迎えて頂きました。

 

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映画系のメディアでライターを始めたのは、去年の10月ごろかなあ。去年はとにかく記事を書きまくってて。“早く書けること”が強みだと思ってたんです。あの時何記事ぐらい毎日書いてたんだろう?だからとにかくとにかく書いて、何かに繋げたい!って思ってたんです。でもその時ちらちら頭をよぎるものが。「このままwebでライターをしていていいのだろうか?というか、どこへ向かうんだろうか?ていうか、向かっていく先は自分がやりたいことなのだろうか?」っていうこと。

 

そんなこんなで映画系の媒体でも例えば『ある映画のファッション解説』とか、『新作映画のおすすめ記事』とか『昔の映画とリブート作品の比較』を書いてけっこう満足、してました。生意気ですね。笑 でもますます思うようになっていました、このまま“webライター”をやっていていいのか、ということを。ライターを始めた時は「ああ〜このままライターはやだ〜」って思うとは考えていませんでした。笑

 

日本の映画業界って、「ん?」って思うことが今多いと思うんですね。それは今年の夏話題になったワンダーウーマン』のプレミアのこととか、邦題問題とか。宣伝のされ方が作品の内容と全くあっていなかったりとか。でも“映画のメディア、ライター事情”もけっっっっこう問題だと思うんです。グレーなことかなって。

 

webって便利ですよね、どこでも簡単にすぐ見ることができるから。でも怖いところは、“誰でも記事が書けて配信されてしまう”っていうところ。たまに見かける方も多いと思うんです。根拠が全くないディスり記事とか、それ、映画史の事実と違くない?って記事とか、あとは“見てない映画でも話を合わせる方法”とかそういう。笑

「あの記事読んだ?あの人の意見どう思う?」とか、そういう議論をするのも憚られるような「orz」って記事が普通に配信されてしまう、すごい怖いというかよろしくないと思うんです。映画に限らずどんなジャンルもですね…恋愛なんか“彼氏の浮気の対処方法10選”とか…浮気って何だよそもそも…

 

はい。笑 そう、webライターって、別にそこまでお給料も良いわけじゃない。でも映画が好きで、せっかく考察とか言葉を紡ぎ合わせたおすすめ記事とかを執筆されているライターさんもいらっしゃるのに、メディアに“均一化”されてるって悲しいですよね。アクセス数のために、他のところとの兼ね合いのために、批評もしないさらっとした記事だけがたくさん流れてくる。もちろんビジネスとしてやっていくのは難しいところだと思うんですけれども。でも、このままただの“ライター”として活動していると、いずれ人工知能かなんかに乗っ取られるか、それか記事の自分の名前も完全にどこかに持ってかれる気がするんですね。笑

 

(話がちょっとずれますが、今記事って“読みやすさ”“読了できるか”が良い記事かどうかのボーダーライン、みたいな風潮があると思うんですけれど。でも“読了できるか”がほんっとうにためになる、良い記事だって言い切れるのでしょうか?超絶難しい内容の本(例えば哲学書とかね)って読み切るの、へたしたら何年もかかると思う。笑 文章の読みやすさ、文法が正しいかどうかはもちろんあるにしても、簡易化だけを突き詰めたものはそんなにためにならないのでは…?と感じることがあります。)

 

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最近考えまくってました。映画が好きだ。自分の言葉でそれを伝えることも好きだ。でもこのまま、均一化されたライターでいたくない。webのただのライターでいたくない。でもそれを解決するのは、やっぱり“勉強”かなって思いました。映画について、真剣に勉強すること。

 

少し前に、「映画評論家は批評されるべきではないのか」という記事を読みました。評論家は批評されます。アメリカではとんでもない筋違いの批評を書いたらすぐに消えるってこともあるそうです。批評家さんたちの中では辛辣な言葉を使う方もいますけれど、その人たちはただ理由もなくいちゃもんつけてるわけではないですよね。だめだったところはだめだったって言う。そうしないと伸びていかないもの。映画を愛してるからこそ、冷静に作品に向き合い、批評する。

批評は誰にでもできることじゃありません。だめだったと思うところは、理由がなければならない。よかったというところも理由がなければならない。「あのシーンはドイツ表現主義だから◯◯だ」「あのシーンに登場するゴッホの絵はこういう意味を持っている」知識がなくては分析することもできない。でもそうできるように、学んでいけば。自分なりの映画愛を貫ける!そんな結論に至り、今これを書いています。笑

 

今年の初めだったかな。その時なにを思ったのか、ある雑誌(おしゃれなカルチャー雑誌です)の編集長さんにいきなりメッセージを送ったことがありました。笑 憧れの雑誌だったので、どうしても書かせてほしかったんです。笑 「こうこうこういう者で映画について書いてて、ぜひ一度お話させてください!」みたいな。会って下さったんです。「ほんとはこういう売り込みみたいなの、嫌いです(笑)でもあなたの記事を読んで(メールで送付したやつ)久々に面白さを感じました。一度会社に来てください」って。それでお会いして、他の記事も読んで言われたお言葉。「でもこれ、誰にでも書けるよね」その時ほんっとに生意気にも「そうかなあ〜」って思ったんですよ。笑 でも今思うと、その通りなんだな、って痛感させられます。もともと誰かの土台があって、それにあやかって、自分の中で考察“めいたもの”が生まれているだけだったんだなと。

 

話がいろんな方向にとっちらかりました。webの媒体、ライターの問題について思うこと、でした!クールな媒体とか、スタイリッシュな媒体とか、そういうもの関係なく、普遍的な良いものを常に発信している、そういう場所が生まれていけばよいなと思います。別にどんな形でもね。では、また!