Bande à pierrot

ティム・バートン、テネシー・ウィリアムズ、アレハンドロ・ホドロフスキー。

ゴダール『気狂いピエロ』は人生最高の映画だ

先日雑誌『東京グラフィティ』さんにお声掛け頂き、“映画好き100人が選ぶ人生最高の映画”特集で私もレビューを書いた。もう少し理性がなかったら「あと3本選んでもいいですか?」といいそうなくらい散々悩んだものの(迷惑)やっぱりこれ以外に無いということで私が選んだのはゴダールの『気狂いピエロ』。

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すごい映画だと思うし、訳の分からない映画だと思うし、初めて観たときは途中少しつまらなかった。笑 数々の書物や絵画や詩の引用で構成されている映画である。ピカソマティスルノワール。映画とは何か?サミュエル・フラーはこう語る。「映画は戦場のようだ。愛だ。憎しみだ。暴力だ。行動だ。死だ。そして感動だ。」『気狂いピエロ』は私にとって、超私的な感情に突き刺さる映画だ。自分のためにこの映画を好きな理由を書き留めておきたい。

 

反米宣言であり、アンナ・カリーナへの失恋、自分の映画監督人生についての映画であることも間違いないだろう。この映画は様々なぶつ切りの物事が詩的言語によってゆい合わされている。一見全く関係のない物事、数々の創作物も自分自身を形成しているものだ、『気狂いピエロ』作品そのもののように。

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自分は文章を書くことが好きだ。2年か3年かライターの仕事をしていた。それ以上に自分で物語や詩を書くことが好きだ。物書き、また物書きであり続けたいというのは奇妙な自我で、常に自分の文章を考えていなければならない、考えざるをえないというところがある(私はそうだ)。フェルディナンのように恋人といてもその人との間にある空間や感情、一緒に見る美しい景色をいかにまた美しい言葉で綴るか、その時のイデオロギーを、流れていく世間の出来事をどう綴るか必死に考えては、いつの間にかすぎていってしまう時間をぼんやりと眺めて1人取り残されたような気分になる。

「あなたは言葉で語る。私は感情で見つめているのに」

「君とは会話にならない。思想がない。感情だけだ」

「違うわ。思想は感情にあるのよ」

「人と人の間に存在するものや空間、音や色を書く。そこに到達すべきだ。ジョイスが試みたが、それをもっと完成させねば」

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気狂いピエロ』の結末はランボーの詩だ。空と海が溶け合う美しい青、全ての争いが終わった後に訪れる静かな永遠...恋人に愛想をつかされるまで言葉を書き続けたフェルナディンは死さえも笑いになり、マリアンヌが言った通り本当に道化になってしまった。ただ、監督のゴダールは生きている。失恋や葛藤、ピエロになったフランス、戦争するアメリカを見ながら、あの結末通り現実と虚構が溶け合う映画という永遠を作り続けている。この事実がたとえバラバラの物事が自分の内と外に広がっていようと、何とか言葉をオールにステップを踏んで行こうと考えさせられる、自分にとって最高の映画と思う理由かもしれない。

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私はゴダールの再来と呼ばれるフィリップ・ガレル監督も大好きなのだが、この2人の映画の登場人物に共通するのは(これは他の監督作品にもあると思うが)流れてゆく社会情勢を見つめながら、閉鎖的な世界で破滅という形を選ぶものであると思う。ただそれはこちらから見てみれば破滅、いわゆる死の形を選んでしまったように見えるが、本人たちからみれば望んでいたこと、肉体を捨てて自らの内に帰していく力強さを感じる。革命や動乱の波に乗れず離れて、それでも人間の生において普遍的で重要なことを求めて模索しながら繊細に生きる彼らには深い憧憬を抱かざるをえない。

 

ここまで読んでくださったみなさま、Twitterをフォローしてくださっている方、私に素敵な機会を与えてくださった東京グラフィティさん、本当にありがとうございます。これからもよろしくお願い致します。

 

Twitter @moeluvxxx 

マトリックスで学ぶ哲学ーソクラテスとネオの関係・洞窟の寓話

哲学/映画の授業で『マトリックス』がよく用いられている。この映画と『ソクラテスの弁明』『プラトンの洞窟の寓話』そしてデカルト、パトナムの『懐疑論』の関係を自分の忘備録として書きたいと思う。

ソクラテスの弁明

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始めにギリシャの哲学者、ソクラテスについて。

彼の弟子プラトンが記した『ソクラテスの弁明』はソクラテスが若者に悪影響を与えた、また無神論を唱えたという理由から裁判にかけられるところで始まる。ソクラテスは『デルポイの神託』から「ソクラテスアテナイで1番賢い男」と言われ、それが本当か否か確かめるため詩人、職人のところへ行き確かめるのだが詩人は持って生まれた才能によって詩を書くことができ、そして彼らはその詩の意味を説明することができないということで”賢い”には結びつかない。職人たちは自分の分野には詳しいものの、それによって「自分たちは他のことにも詳しい」と勘違いしてしまっていて”賢い”には結びつかないとソクラテスは判断。彼は『All I know is that know nothing』自分は賢くないということを知っている、と知るのだった。

裁判の果てにソクラテスは有罪判決をうけるけれども彼は死を恐れることは自分を賢く見せようとすることと同じであり、知識への妨害となる肉体を魂が離れ、無知を克服するために真実を認識する哲学は死への準備だと言い、死刑になる... といった内容が『ソクラテスの弁明/プラトン』である。

ネオ=ソクラテス

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マトリックス』のネオはソクラテスのような存在、と考えることができる。ソクラテスは“デルポイの神託=The Oracle of Delphi”から「お前はアテナイで1番賢い人間だ」と啓示を受ける。同様にネオも“預言者”に会いにいく。日本語字幕では“預言者”とされているが、英語ではそのまま“Oracle”なのだ。

ネオもソクラテスと同様、世の中の真実、真理ーマトリックスとは何か?を探し続けている。モーフィアスとネオの関係を考えるとソクラテスプラトンの師弟関係も彷彿とさせる。

プラトン 洞窟の寓話

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一応洞窟の寓話の概要を...

とある洞窟に捕らえられた囚人たちは、壁に映る影を“本物の現実”と勘違いして過ごしていた。ある日1人の囚人が解放され、外の世界に出た。くらい洞窟に慣れていた囚人はすぐに太陽を見ることができないが、最初に影を見て、次に水に映る物体を見、そして最後に太陽を見ることに成功する。しかしこの解放された囚人は再び洞窟に戻り、まだ捕らわれている囚人達を導いていかなければならない。

この洞窟が表しているのは私たちが今生きている世界、そして洞窟の外の世界というのは“Form”すなわち“概念”。『マトリックス』はこの『プラトンの洞窟の寓話』に最も沿ったプロットと言ってもいいかもしれない。

マトリックス=洞窟

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マトリックスはこの洞窟の寓話で言う洞窟を表す。ネオ達人間はマトリックスという仮想現実に住み、幻想=影を見ているのだ。ネオは寓話で言う解放された囚人に当たる。まず彼は白ウサギに導かれてトリニティ、モーフィアスに出会い、本当の世界=外の世界を見ることになる。彼が外の世界で目覚めるシーンでは彼の体は上に持ち上げられ、体が弱っているところから寓話によく沿っていることがわかる。ネオは真実=生きていた世界は“仮想現実”ということを知るが、再びマトリックスに戻って戦いを続けなければならない。

私たちが生きている世界もマトリックスのようなものだ。私たちは五感のレンズによって世界を見ているが、“概念=form”そのものを見ることはできない。しかしマトリックスというものが何か理解したネオが覚醒したように、見えているものだけに捕らわれず物事の本質を探索しようとする姿勢は私たちにとって大事なことに違いない。

デカルト、パトナムの懐疑論マトリックス

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私たちは夢を見ている時、その夢の内容は本物だと思うが、しかしそれは夢であり、本当の経験ではない。それと同じように今経験している出来事も“本当”なのかわからない...もしかしたら悪魔が私たちに錯覚を見せているだけなのかもしれない。フランスの哲学者デカルトは夢や幾何学を使って知識の基盤を再構築し、すべてのものを疑って、そして自分が存在している証拠を突き止めた。「I think,therefore I am(我考える、ゆえに我あり)」というやつである。

アメリカの哲学者Hilary Puthnam(ヒラリー・パトナム)もこんな説を唱えた。「神経学者がある人の脳に電気刺激を与えて脳波を操作すれば、脳はそれを現実だと勘違いして仮想現実が生み出される」これもまんま『マトリックス』の世界である。ネオたち人間は外の世界(マトリックスの外)では卵のようなカプセルに入れられ、刺激を与えられて仮想現実を見せられている。

この懐疑主義に関してはーもしこの懐疑主義が真実でなくとも、私たちは幻想を避けて真実を探し求めることについて、真実に沿って知識を確率できるように私たちは常に疑問を持ち、探索し続けることが大切だ、とデカルトから学ぶことができる。

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哲学が分かりやすく詰まった『マトリックス』はソクラテス、洞窟の寓話、デカルト、パトナムの話を踏まえてから見ると台詞や彼らのムーブメントがよく沿っていることがわかって面白い。哲学はただ学ぶだけではなく、この哲学者はこう言った、自分は賛同する、じゃあこれからどう動いていけばいいのか?と実践につなげることが大切なんじゃないかな、と思います(雑)

消えないで“映画を観る経験”、劇場文化について考える

先日ゴダールの『勝手にしやがれ』『はなればなれに』をロサンゼルスの映画館で観てきた。この劇場では約1ヶ月、土曜日にゴダール作品のリバイバル上映をするイベントを開催するらしい。

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行ってきたのはAero Theatre というサンタモニカ付近に位置するこじんまりとした映画館。私が行った日はこの2本上映で、値段は12ドル。2本観ることができるのを思うとずいぶんお手頃なのではないかと思う。客層はというとご年配の方の方が多いように感じられたが、私と同じくらいの年頃(20代)中には10代と思える男の子のグループもいて、映画が終われば皆で拍手をして、とても楽しい空間だった。何よりもゴダール作品を映画館で鑑賞するという経験が何よりも嬉しかった。

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アメリカは日本と比べ、リバイバル上映を行う映画館が多いように感じられる。小さな映画館が毎週金曜や土曜日に、イベントや“フライデー・ホラーショー”なんて題して名作の上映をしている。今ではキューブリックの『2001年宇宙の旅』上映から50周年と言うことで、キューブリック作品のリバイバルを行っているところも多い。私はこうした映画館でのリバイバル上映は映画を愛する人たちにとって素晴らしいことだと思う。映画を観る体験が簡単に、手軽になる一方で劇場文化や従来の映画の観方が少しずつ失われていくことについて考える。

“劇場文化を衰退させる”と聞くと思いつくのはやはりNetflixだ。自社でも製作を行い、観客にとってみればどこでも映画を簡単に手軽に観ることができるNetflixのサービスは便利なものに間違いない。しかし劇場公開とオンラインでの配信を同タイミングで行えば人に邪魔されず鑑賞したいという人は間違いなくネットで観るだろうし、また近くに劇場がない人も自分の家で観るだろう。かつては多くあった名画座はレンタルビデオ屋の増加によって少しずつ姿を消し、現在はネットサービスによって映画館自体が廃れていくように思える。個人的な意見として劇場文化が損なわれていくことは寂しいと思うし、“映画を観る”という概念が変わっていくような気がして、何だか居心地が悪い。これは“古い”意見だろうか、もちろん私も家でDVDをレンタルして観ることも多いが、映画は映画館で観ることが何よりも1番観客にとって、そして芸術にとって大切なことに思える。なぜなら観客はどんな映画であろうと劇場に詰め込まれれば、その作品に最初から最後まで集中して向き合わなければならないからだ。

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ネットで、DVDで映画を観るのは現代人にとってとても便利だ。劇場なら時間を合わせなければいけないが家での観賞はいつでもできる。それに、いつでも止めることができる。少し家事をしたくなったら、友人から連絡がきたら、飽きたらーーこれは果たして“映画という芸術全体”を思うと、良いことなのだろうか。簡単に作品の鑑賞を止められるということは、その映画の意味について、なぜ良かったのか、なぜつまらないと思ったのか考える習慣を薄めてしまうように思う。それは映画の作り手にとっても喜ばしくないことであると思う。観客が受け取らなかったら、良い作品は良いと、失敗作は失敗だと受け取らなければ、芸術の発展は上向きになると私は考え難い。観客にとってもその映画が自分にとってどういう効果や影響をもたらしたか考えることは自身にとって素晴らしいことだと思う。大勢の人と映画を劇場で体験し、話し合い、思考することは、映画への興味を高め、結果として芸術そのものの発展につながるのではないかと考える。

映画の始まりは、フランスのリュミュエール兄弟が発明した“シネマトグラフ”だ。兄弟は大勢の人が同じ映像を観、同じ体験をすることを目的に大型スクリーンで上映するという“映画館”を作り上げた。エジソンは逆に、映像を小さな箱に閉じ込めた“キネトスコープ”を作った。今はネットという小さな箱で映像を観るというエジソン式の“映画”が盛り返していると言えると思う。

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別に誰もかれもが映画を定期的に観なくてもいい。でも1本でも良い映画に出会い、それがその人にとって欠けていた何かを埋めるものであった時。この作品のストーリーははまらなかったけれど、衣装にしびれたと思った時。何がいいのか言葉にできないけれど、自分にとって特別だと感じた時。間違いなく素晴らしい体験であるに違いない。そしてそれはやはり真剣に向き合わなければ、なかなか得ることのできない体験でもあると思う。便利な時代、映画が身近な時代、それは良いことだが、もともとの映画体験とは何であるか、芸術と私たちの関係とは何であるか、それについて考えることが大切であると思う。そしてリュミエール兄弟が後世に残した“人々と概念の共有”という文化が受け継がれて欲しいと思う。

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【ネタバレ考察】ウェス・アンダーソン監督『犬ヶ島』はホワイトウォッシングなのか

(この記事は『犬ヶ島(Isle of Dogs)』のネタバレを含みます。)

 

ウェス・アンダーソン監督の新作ストップモーションアニメ映画『犬ヶ島(Isle of Dogs)』を一足先にアメリカで観てきた。

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アメリカで日本を舞台にした映画、画面のあちこちに漢字が現れるのは不思議な感じがしつつも少し誇らしい気持ちになった。アンダーソン監督の描く日本のディストピア未来はもちろんファンタジックだが何というかあまり違和感が感じられないものだった。時折漢字の使い方に突っ込みどころが感じられつつも、こうして見ると日本の文化はやっぱり奇妙なものだと感じさせられとても面白かった。何より海外の監督が手がける作品で“日本を舞台にした”映画は時折見かけるものの“日本人のキャラクターが登場する”映画は...あまり思いつかない!個人的に大好きなアンダーソン監督が日本を舞台に、日本人を登場させた映画を制作したのはとても嬉しかった。

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しかし幾つかの媒体でウェス・アンダーソンはホワイトウォッシングをしている」との記事を見かけた。理由は声優たちがスカーレット・ヨハンソンティルダ・スウィントンなど白人のキャストばかりだからだ。アンダーソン監督が『犬ヶ島』について最初に発表したのは確か2年ほど前、その頃は今よりも映画業界が多様性や男女格差問題について大きく触れていなかったのは事実だが、しかしもう少し熟考できなかったものかと。

 

しかし、アンダーソン監督は“わざと”白人の俳優たちを犬役に当てたのではないかと考えている。

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考えてみれば『犬ヶ島』は面白い話だ。もともと島国なのは日本、大陸に住んでいるはずの英語圏を話す者たち(日本人のキャラクターはそのまま日本語を話すが、犬たちの言語は英語に翻訳されているという設定になっている)が島流しにあっている。それは犬たちが犬インフルエンザを患い隔離されているという設定だからだ。私はこの犬たちは、現在の白人たちを表しているのでは、と思う。

 

今まで映画業界で白人の人種は大きな力を持っていたと思う。ここ最近は『スパイダーマン:ホームカミング』のようにヒスパニック系、アジア系など様々な人種に富んだ(日本語間違ってたらごめんなさい)キャスティングが行われるようになってきたが、少し前まではほぼ白人のみで固められた映画も珍しくなかった。しかしセクハラや男女差別などの問題が徐々に明るみになり、今まで強い力を持っていた特に白人男性達はバッシングを受ける立場にもなった。そして私がアメリカ(ロサンゼルス)に来て感じたことは、“白人達も差別を受ける”ということだ。人種で差別をすることは醜いことだ。今まで弱い立場にあった者たち、様々な人種が同じ権利を持っているべきだが、だからといって今までの強者と弱者の立場が逆転するのは、結局根本的な解決にはならない

 

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アンダーソン監督は映画内で多様性、様々な民族が結束することの大切さを描いていたと思う。この写真のシーン、同じ犬種の犬達とメインキャラである犬達が餌を取り合って喧嘩するのだが、様々な犬種のメインキャラの犬達が勝利する。また興味深いと思った描写は、ブライアン・クランストン演じる黒犬“チーフ”のシーンだ。チーフは劇中で文字通り“ホワイトウォッシング”されるのだ。あまりにも汚れているチーフを見かねたアタリはチーフをシャンプーしてやる。そうすると今まで黒犬だと思われていたチーフは実は白犬だったということがわかるのだ。

 

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黒人、今まで立場が弱いとされていた者、マイノリティ、その立場になった方が社会に溶け込みやすい時もある。しかし本当の自分のアイデンティティは今まで立場が強かった者、マジョリティ。それが少年によって明らかにされ、チーフがアタリという日本人少年を守るという使命に目覚める様子はちょっぴりほろりとさせられた。しかしいかにも反発をくらいそうな“洗って白くする”という描写をやってのけたアンダーソン監督はやはり、ひねくれたユーモアセンス(褒めてる)を持った人だなあとも思う。笑

そうして犬達は無事犬インフルエンザ(迫害されていた理由が解決)も治りメガサキ市に戻り、日本の人々と共存していくことができるようになる。

 

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思えばキャスティングはとても秀逸だ。日本の学校に来ているアメリカ人留学生トレーシー、彼女は犬達を迫害するメガサキ市長に抗議してアタリに協力するのだが、そんなトレーシーを演じるのは男性優位の映画界の中で、その実力で自身の作品を発表し続けている『レディ・バード』のグレタ・ガーウィグだ。映画界に新しい旋風を巻き起す彼女だからこそ、アンダーソン監督はトレーシーにグレタを起用したのではないかと思っている。

『犬ヶ島』の白人キャストの起用は意味があり、“ホワイトウォッシング”ではないというのが結論だ。見当違いだったら島流し受けます。

【日記】外に出てアイデンティティに出会う

毎日少しずつ緊張しながら過ごしている。

まだ慣れ親しんでいる環境ではないから、生活しているだけで留学生活は勉強になる。高校時代に勉強した内容をもう1度英語で勉強するのも、日本とは全く違うエッセイの書き方を勉強するのも、もう分かっているはずのことを角度(言語)を変えてまた学ぶというのはとても面白い経験だと思っている。でも外からやってくる刺激や学ぶことが多い中でも、日本と同じように自主的な勉強、映画を観たり本を読んだり...そんなことも大事だと思うので、気を抜かないようにしようと少しピリッとしながら留学生活2ヶ月目を送っている。

 

 

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留学にやってきてから、いろんなことを実感した。

頭で分かっていたこと、分かっていたことを肌で感じることが多い。

例えば「いろんな人がいる」ということ。

人それぞれ違うのは当たり前だしそれは日本でも思っていたことだけれど、アメリカ、私がいるロサンゼルスは特にたくさんの人がいる。みんなアメリカ人だけれど、白人、黒人、ラテン系、アジア系...すごく単純な言葉だが、本当にいろんな人がいるのだ。同じラテン系で集まっている人たち、黒人だけで集まっている人たち、白人とアジア系のグループ。アジア系に関しては本当に少ない。うぬぼれじゃなくたまに学校や近辺で「あの子は何人だろう?」という視線を感じるぐらい、日本人はちょっぴり珍しい存在、であるのかもしれない。(私の住んでいる付近では。)

そして「いろんな考え方がある」ということもそうだ。

 

まだ私は黒人のよく話す友達はいないけれど、数人アジア系、メキシコ系、白人の友達ができた。私の行っている学校は留学生ももともと少ない上、日本人もほとんどいない。みんな私が初めての日本人の友達だという。好奇心で「日本や日本人に対してどんなイメージを持っていた?」ということを質問したら、みんな答えてくれた。

 

「人が本当に多くて、便利で、ファッションがクール」

「みんなシャイで礼儀正しいイメージ。女の子が可愛い!笑」

「アニメが大好きだから早く日本に行きたい(本当にドラゴンボールのTシャツやストラップを持っている男の子がいっぱいいる」

「俺はイメージを持ったことがない。だって確かに大多数はこういう人が多い...というのはあるかもしれないけれど、結局は個人個人みんな違うから。それはどこの国でも一緒だと思うから、あまりこう!っていうイメージはないなあ」

 

後最近、メキシコ系の男の子にこう質問した。それは彼が私に映画『ブラッド・イン・ブラッド・アウト』をおすすめしてくれて、それを観た後のこと。

 

 

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この映画はメキシコ系アメリカ人3人の青年が少しずつ違ってゆくそれぞれの人生を生きる...という熱気がほとばしるギャング映画なのだが、その映画の彼らの自我は“アメリカ人”ではなくずっと“メキシコ人”だった。それで思わずその友達に「私はずっと日本で日本人にかこまれて育ったから、日本人であるということについて考えたことがなかった。あなたはご両親はメキシコ出身、あなたはアメリカでずっと育っているけれど、あなたのアイデンティティはメキシコ人なのか」と聞いてみた。答えはやはり「YES」だった。

 

「僕はヒスパニックのカルチャーが大好きだし、自分のことはもちろんメキシコ人だと思っている」そしてこう続けた。「僕は白人のことがあまり好きになれない。彼らは利己主義的に見える。自分がどう思おうと、大多数が良いということにはYES。大多数にどう見られるかということを考えて振舞っているように見えるんだ」

「君は日本で育ってきたから僕らに対しても誰に対してもフラットな目を持っていると思うし、それは悪いことじゃない。でもすごい複雑なんだよ。長い歴史があるから」

 

もちろん彼のいうようにすべての白人の人が利己主義的だなんて、そんなことは無い。でも彼が、彼の家族が今までアメリカでどのように過ごしてきたか、メキシコ系としてどのように接せられたことがあるか私は知らない。ニュースや記事で読む現在の移民についての問題やトランプ政権のこと、本当に大きな中の一部分しか。

 

このように様々な人種の人から様々な考えを聞く毎日、どの意見ももちろん興味深く感じる。なぜなら日本では聞けなかったことだから。それでももちろん彼らのどの意見、どの概念についての考え方も正しいというわけでは無い。 自分の信条や誠実であるというものに照らし合わせて自分の中に落とすことが大切だ。「この人はこういう発言をしたから自分とは合わないわ」「差別的な人なのね」と割りきらず、十分に意見を聞いた上で。ここは理解できるけれど同意はできないだとか、その考えはカルチャーから影響を受けているものなのかだとか、様々なアイデンティティを持つ人々が集まって「人間関係は難しい」というのもしっくりと実感したような気がする。

 

留学にきてから「誠実であること」について以前よりも考える。私は22歳女性の映画好きだが、日本人だからだ。私の意見は映画好きの意見でもあり、女の意見でもあり、そして日本人の意見でもある。私の言葉は「Moekaが言ったこと」としても受け取られるだろうが、「日本人の言ったこと」としてももちろん受け取られるだろうと思う。「日本人らしさ」とは何だろうか。本当の武士道ってなんだろう?留学前に九鬼周造の「いきの構造」を読んだけれど、読んだだけではどの国の言葉でも当てはまる単語が無いと言われている“粋”を実践できているわけではない。

ただ今海外で「人間として誠実な行動」をとるということは(当たり前のすべきことだろうが)自分の国にとって良いことだと、そう強く実感している。

 

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まとまらないでごちゃごちゃ書いたけれど結局“肌で感じること”というのは素晴らしい体験だ。そして自分の場所を離れたところで自分のアイデンティティを発見するというのも。ちなみに『レディ・バード』はそういう映画だったよ!!

 

【考察】『The Beguiled/ビガイルド』がなぜ今リメイクされたかについて考える

The Beguiled/ビガイルド 欲望のめざめ日本で観ることができなかったので、アメリカでレンタルをして観た。

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雑な感想をいうと、美しかった。笑 ソフィア・コッポラが映し出す花嫁のベールで包まれたような繊細な世界は、甘美な中に女のしたたかさが見え隠れしている気がして見入ってしまう。女の子が彼女の作品を好きな理由はそのお洒落な世界観ももちろんだけれど、成長していく中で感じてきた甘い気持ちや毒っ気がある気持ちが映像になって意識に入り込んできていて、無意識に懐かしさを感じているところもある気がする。

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『ビガイルド』はクリント・イーストウッドが主演を務めた『白い肌の異常な夜』のリメイク。なぜこのタイミングでリメイクされたのかと考えると、このサスペンスは今の時代にぴったりだと思う。作風は全然違うけれどスリー・ビルボード』や『アイ・トーニャ』と同様のテーマを描いているように感じる。それは「人間はその人が完全に善か悪かでは割り切れない」というもの。

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女性ばかりの清楚な寄宿学校に紛れ込んだマクバニー(コリン・ファレル)は最初は女性陣にいい顔しまくり。最後の方にはとある事件があって、暴力で女性たちを怖がらせてしまう。女性たちはいきなりやってきた男性に興味津々。色仕掛けやらなんやら個人個人の方法で彼に接近、キルスティン・ダンスト演じるエドウィーナは本当にマクバニーを愛するようになる。

しかし結末ではマクバニーは毒キノコを食べさせられ殺されてしまう。つまりマクバニーは女性たちを翻弄した加害者でもありながら殺された被害者でもあり、女性たちはマクバニーに翻弄され怖がらせられた被害者でもあるがマクバニーを葬った加害者でもあるのだ。被害者は加害者でもあり、加害者は被害者である、と言うことを描いている作品だと思う。

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今ハリウッドでは『Me Too』運動や『Times up』など、男性に性的暴力を振るわれた女性たちが声をあげたり、男性優位の社会を変えようという声が多く上がっている。しかしフランスの女優カトリーヌ・ドヌーヴブリジット・バルドーらはこの運動に対し『セクハラはもちろん犯罪だが、男性が女性を口説くのは決して悪いことではないし、女性は男性より弱いということもないがシチュエーションによってはそれを選ぶ権利だってある』といったような文書を出している(ちょっと言葉が足りなくなっていますがごめんなさい...)

ムーブメントを見ているとあまりにも多くの俳優がやれあの人もDV男だ、あいつもセクハラ野郎だと言われていて、「これは本当に真実なのか?」と疑いたくなってしまうようなものもある。本当に中にはもしかしたら、売名がしたくてちょっとのことを大きくでっち上げている...なんていうケースもあるかもしれない。

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だから今まで力を振りかざしていた者、加害者であった者たちを必要以上に罵倒し、貶めれば今まで被害者であった者が加害者になるかもしれない。立場が変わっただけで、起こっている争いは集結しないかもしれない。『ビガイルド』のシチュエーションは今の映画業界、社会にフィットしているからこのタイミングでリメイクされたのではないか、と思っている。

 

Me Too運動だけじゃなく、今は世界の美術館から「小児性愛を美化している」なんて言って美術品を取り外そう、なんていう運動も起こっている。「これもダメ」「あれもダメ」あまりにも清浄化された社会は少しのことも異常になり、それまで以上の狂気をうむのではないか...『ビガイルド』の寄宿学校のように。そんなことを思ったアメリカ留学生活2ヶ月目でした。

 

 

【日記】アメリカ留学1ヶ月目 : 友達ができました

アメリカに来て一ヶ月と10日ほどすぎた。いろいろ観光に行った方がいいのかとも思ったけれどどうしても興味がわかなくて(笑)学校が始まるまではいつも通り映画を家で観たり映画館に行ったり、映画のロケ地をちょっとだけ回ってみたりもした。短い小説も2編ほど書いた。詩も書いた。今は書きかけの小説がまた2編。

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やっと学校も2月に始まって、アメリカ人の友達もできた。アジア系の友達、ヒスパニック系のお友達。彼女たちは学校で所属している“アート・クラブ”に私を入れてくれた。とても嬉しかった。そのクラブでは皆が思い思いに絵を描いたり、ギターを弾いたり、時には皆でZINEを作ったりするのだそうだ。魅力的だと思う。私は絵が上手なわけでも楽器が得意なわけでもない(ピアノは習っていたけれど、指が短すぎて一オクターブ届かなかったwww)けれど、文章は書くことは好きだから、これから英語でも何かしら詩やら小説やらを書いてクラブに貢献できればと思っている。

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先日彼女たちと美術館に出かけた。Getty museumというミケランジェロやモネの作品がなんと無料で見ることができる綺麗な美術館。帰りに1人女の子の家にみんなでより、お茶を飲んで話をした。その中でその家の女の子が投げかけてくれた質問がとても興味深かった。

「Moeka、あなたを確立させるのに作用した、あなたに影響を与えた人物は?」

いざ聞かれてみるとぱっとすぐに言葉が(英語がまだ達者じゃないというのもあるけれど)出てこなかったけれど、なんとか返事をした。

アレハンドロ・ホドロフスキーはその1人。彼は1番美しい芸術は詩と言ってた。彼の作品はどれもサイケデリックだけれど、美術にも哲学にも造詣が深い人。ホドロフスキーの考え方は影響を与えてる」

キューブリックは「芸術家は芸術にだけ責任を持てばいい」と言ってた。私もその通りだと思う。あとはジム・ジャームッシュのような作風は好きで、私が目指したいものに近いかもしれない」

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かなりぐちゃぐちゃに喋ったけれど、皆真剣に聞いてくれた。その女の子もジム・ジャームッシュは影響を受けた芸術家だそうだ。なぜ皆はアートが好きなの?勉強したいと思ってるの?と聞くと、このように答えてくれた。

 

「何かを描いたり作ることは私を心の底から満足させてくれるから」

「僕は詩を書いてる。生きることは詩に似てる。詩はその瞬間を永遠に止めておいてくれるものだから美しいと思う。将来あちこちを旅してちょっとずつ詩を書きながら生きていけたら最高」

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今まで同世代で、何か文章を書いたり絵を描いたりという友達はいなかったから、このような話ができることが嬉しいのはもちろんのこと。常にノートやギターを持ち歩いて自己表現を自由にする彼女、彼らを見ているととても眩しいし美しい衝動だなと改めて思う。最近仲良くなった彼らは自分が生きることのわらじに、もう“詩”や“絵”がナチュラルに組み込まれていることを受け止めているのだろう。だから自由で、奔放に創作ができているのだろう。

 

言葉がまだ十分でない今、それでもコミュニケーションを取り自分のことを理解してもらうために、まず自分が自分のことをより理解し、素直な気持ちを抱き、好きなものに対して確立した意見を持つこと。何よりもそれが必要なのではないかと感じた学校二週目だった。短いけど日記終わり。