Bande à pierrot

ティム・バートン、テネシー・ウィリアムズ、アレハンドロ・ホドロフスキー。

駆け抜けて性春

「そのときぼくは、とても作家にはなれないと思いました。だってデイジー・ハニガンとこの十分間に感じた幸せを、ぼくはどんな言葉を使ってもとうてい表現できないからです。」

 

夏に続いて再び東京グラフィティさんに文章を載せて頂いた。今回はレギュラー企画“カルチャー好きに聞く”、お題は“好きな相手に愛を伝える美しい台詞” 伺った時に喉から照れて変な声が出てしまった。笑 真っ先に、というよりこれ以外に私が選びたい台詞は思いつかなかった。2018年に亡くなった偉大な戯曲家ニール・サイモンの作品、『ビロクシー・ブルース』より。

これは作者ニール・サイモンの自伝的作品である。舞台は第二次世界大戦下、新兵訓練キャンプ。主人公ユジーンは戦争中に三つの目標を達成することを誓った。それは作家になること、生き残ること、そして童貞を捨てること!キャンプで出会った個性豊かな新兵たちと異なる価値観を共有し、時には衝突し、そして出会った淡い初恋...この台詞はユジーンが初めて恋心を抱き、彼女とお別れしなければならない時に発せられる台詞だ。もう直ぐ死と隣合わせの戦場に赴くというときに出くわした初恋、自分の中に湧き上がる胸が苦しいほどの愛おしさと切なさに彼はひれ伏し、まだこの感情を書き並べ洗わせるほどの言葉を自分は持っていないんだと絞り出すのだ。しかしユジーン...ニール・サイモンは生き残り、作家になった。仲間たちが次々と戦地に足をすくい取られていくのを見、『ビロクシー・ブルース』を書いた。この戯曲は決して難解な言葉が並べられたものではない。等身大の若者たちの言葉で構築され、その言葉に宿る感情がすべて真実であるからこそ胸をうち、笑顔にさせ、涙させる。

 

そして、当然のことながら、私はこんな経験をしたことはないから、この台詞を彼に送るわけにはいかない。笑 というか、図々しい。笑 ただ作家になりたい、物書きになりたいと考え毎日文章をノートに綴っている若者が、恋愛感情を前にああだめだ、こんな瞬間書けるわけがないよと手を握りしめてため息をつく、その瞬間と彼の幸福とある種の落胆、それがシンプルな文句とともに伝わってくるこの台詞はこれからもずっと特別だと思う。小説家になりたい。私も毎秒毎日そう思い、書いている最中だから。

 

恋愛のことをを例えばSNSなど友人以外も閲覧できるような場所で書くのは妙な気持ちになるし、恋愛は本当に“私とあなた”が満足し幸せを感じているならそれで良い、社会の風潮やらこんな彼氏彼女がいいやら全く気にすることではないと思うから、恋愛のエピソードを含めるのは不思議な気持ちだったけれど、自分の恋愛とこの台詞を選んだ感情を照らし合わせて考えるのは面白い経験だった。「ぼくは作家にはなれないと思いました。」全くドラマチックな世界には生きていない。朝起き、電話をし、彼は眠る。私は学校に行く。彼が目をさます。おはよう。私は眠る。いきなり持ち物に大金が入ってたとか、二人でメキシコやらフランスに行くやら、そんなことは起こらない。彼を見ていると、私はゆっくりとでも書き続けようと思う。ただそれでも、時折彼の姿を思い浮かべると、やはり余計な言葉はいらないような、いくら並べたところで結局ただ一つの言葉に収束してしまうような...そんな消失と衝動を繰り返しながら現実の生活は続いていくんだろう。このブログいつか絶対消す。笑

 

1日早く生まれれば手塚治虫と同じ誕生日だったのに

2018年11月4日で23歳になる。これからボヘミアン・ラプソディーを観にいくのだがバスを待つ間にこれをメモ帳に書いている。毎年のことだが一つ年が増える実感はまったく無い。去年の誕生日は確か前日にノクターナル・アニマルズを観にいったせいで一日その映画について考えていたためまったく覚えていない...

 

22歳はまだほんの20年少ししか生きていないものの人生が変わってゆく節目の年の一つであったことは間違いない。自分がアメリカに来て、大好きな映画に携わって生きていくために本格的に勉強する道を選ぶとは思っていなかった。今までの仕事をやめたことや、友人たちが社会にでたことに対する焦燥は直に消えた。漠然と知っていたことを明確に知ること、今の芸術の根本を学ぶことが何よりも穏やかにしてくれたし、満足させてくれた。

 

アメリカに来て変わったことは、あんまり無い。日本と生活はあまり変わらない。もちろん日本の友達もいなければ家族も一緒にすんでいないし猫にも触れないしツタヤも渋谷も原宿も下北もないけれど、映画をみて本を読んで、友達とは電話をして、書いて勉強して過ごしている。こちらの生活はすぐに慣れたように思う。

 

自分に向き合う時間は多すぎるほどに多かった。一月は学校も始まっていなかったため毎日1人、1日一回は外にでて、映画をみて、ひとと電話をして、物語を書いたり、構想を考えたり、とりあえず映画をみて過ごした。笑 日本がどんどん変わっていくのを画面の中でずっと観ていた。さまざまな人が政治を話すのを、リベラルを語るのを、LGBTQについて考えるのを、日本という国の根本にある改善されるべき部分を話すのを見たし、ハリウッドが変わるのを、イデオロギーを照らした映画が生まれるのを、多様な人種が暮らすここで見ていた。それに対して自分の意見はうまれたし、今は声があがるとき、あげるべき時なのだろうとも考えた。それでも個人的に、私の何かに向けられる情熱や激しい好奇心、憧憬のようなものはいつも絶え間無く動いている大きなエネルギーの流れからは離れたところ、もしくは自分の内側のみに向けられているように思えた。それをぼんやりとだが淡々と考えた歳でもあった。視野を広げ、議論されるべき話題がたくさんある時代、私はただただ自分だけの中に広がる、収拾のつかない混乱、漠然とした悩みに引っ張られ、簡単に言えば興味を持つことができず、さて、何を探して、何を相手に戦っているのだろう。これは無知が原因なのだろうか。それとも単純に、無関心な人間なのだろうか。そんなものなのだろうか。22歳はまあ、決して多いとは言えないが物語やら詩やらを書いた歳だった。読み返してみると似たり寄ったりで、ひどく個人的なものだった。おそらく人の為に何かを、という動機は欠けているのだと思う。ただそれは自然に発生するものであって、作り出した動機で書いてもきっと仕方がない。23歳の年は変わるかどうかも分からない。

 

書く。気狂いピエロから引用すれば人と人の間に存在する空間や色を書く。それが徒労に感じられる作業であっても、出来上がった時に屑になっていても、ひたすら毎日物を書く。断片的なイメージをできる限りの言葉を手繰り寄せ、1つの物語にする。この歳も22歳と同じ、その作業に取り組むだろうし、今何を1番求めますか、何を1番したいですかと聞かれれば、これ以外いつも思いつかない。知識が増え、世界がさらに広がればスタイルも変わるかもしれないし、書く内容も変わるかもしれない、それでもまた、内面的な、小さな世界の物語に変わるかもしれない。それでも、外から得る知識を噛み砕きつつ、それがただ数字に現れる成果としてではなく、実践へ移せるように。どんなものでも自分が信じるものの中で戦えるように、時々は手足を伸ばしながら、過ごしていきたい。

 

[追記]

ボヘミアン・ラプソディ見終わったんだが劇中でハッピーバースデーを歌うシーンがあって、なんでこれを誕生日当日に選ばなかったんだろう...

 

 

 

考察/感想『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』プラトンとロックと愛

ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』を観た。近年では『パーティーで女の子に話しかけるには』を発表したジョン・キャメロン・ミッチェルが監督、脚本、主演を務めた映画である。もともとはオフブロードウェイで上演されていた舞台を映像化したそうだ。「今この時にこの作品に出会えてよかった」という、準備されていたかのように手にとった映画がぴったりとはまって余韻から抜け出せなくなるこの感覚、だから映画好きはやめられない....

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性転換手術を受けたものの股間に“怒りの1インチ”が残ったロックシンガーの主人公ヘドウィグが故郷ベルリンを離れアメリカに渡り、自分の“片割れ”を探し続ける。別れた恋人トミーは自分の曲を盗んでトップに上り詰めたと今では裁判問題。ヘドウィグが探し続けるものはどこにあるのか、見つかるのかと言う物語である。パワフルな声でヘドウィグが自分の軌跡と感情を歌い上げる。

本作のエンディングでありテーマでもある歌『Origin of Love』のベースは哲学者プラトンの『饗宴』だ。これはプラトンが残した「対話篇」で、詩人アガトンが催した宴にプラトンの師ソクラテスが招かれ、そこにいる者たちと愛について話を繰り広げるというものである。

かつて人間は一人二組で、四本の手足を持っていた...という下りから歌詞は始まる。それは愛が生まれる前の物語。男同士が太陽の子、女同士は大地(地球)の子、そして月の子は男性と女性の間の子。しかし人間の不敵さに恐れをなした神々が彼らを引き裂いてしまった。だからというものは引き裂かれた自分の片割れを探し、元どおり一つになりたいと言う感情。それが『Origin of Love』の内容である。『饗宴』をベースにしているもののインドの神やオシリス、ナイルの神まで現れることから大きく飛躍していることが分かる。

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ヘドウィグが歩んできた人生。故郷を離れ、アメリカに渡るために性転換手術をした。男性器を捨て海を超えたものの、相手の男には捨てられた。自分を奮い立たせるためにウィッグをかぶり、メイクを施した。そこで運命の相手だと信じたい、心から愛した相手と出会う。それがトミーだ。しかし彼はヘドウィグの“怒りの1インチ”まで愛することができず、ヘドウィグから音楽の知識を吸収し、曲を奪って去って行ってしまった。そしてヘドウィグは“夫”のイツハクに強くあたりながら、売れずにロックミュージシャンとして過ごしている。そのあとひょんなことからヘドウィグは注目を浴びることになるのだが...

 

結論から言うと、片割れだと信じたかったトミーは、片割れではなかったのだ。自分がずっと追ってきたものは、片割れと思っていたものは、最後ヘドウィグがトミーと同じ格好をしているのをみると、それは自分の影だったのだ。そしてヘドウィグはカツラも、メイクも、ファッションも脱ぎ捨てて、その鎧が無くても自分自身を受け入れることができるようになった。得るために何かを捨てたり、守るために何かを身につけたり...アイデンティティを模索し続けていたヘドウィグは自分の影/片割れと統合することにより、もうすでに“完全”だと知ることができた。トミーを見ながら涙するヘドウィグ/キャメロン監督の姿はあまりに哀切で美しかった。

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最後何も身につけず夜道をよろよろと歩いていくヘドウィグ。ヘドウィグはその後、“片割れ”探しではなく、今の自分の姿のまま、相手もそっくりそのまま愛することができる道を歩んでいくのだろう。ヘドウィグは現在の夫であるイツハクにはひどい仕打ちをしていた。しかし最後彼にウィッグを与え、イツハクは喜びの涙を流した。自身も不遇な時代を辿ったものの、実力があるイツハクをヘドウィグは抑圧していたのだ。人を失った虚無感、欠落感からそばにおいておいたイツハクを自由にする。それができたからこそ、ヘドウィグは次こそ“全体”の自分で“全体”の相手を愛せるのではないか、と思う。

プラトンの『饗宴』“愛の起源”の話に戻るが、この“1つになる”、元の形というのは魂のことなのだろう。人生で探し続ける様々な“何か”、それは自分がもともと持っていたものであり知っていたものなのかもしれない。そして紆余曲折を経て、生と死を終えそれも統合され、“魂”という形で存在し続ける。『ガタカ』や『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』をみると、ふとイデア論のことを思う。『洞窟の寓話』じゃないが愛、美、正義、イデアは目に見えるものではない。だが目に見えなくとも“真実”を求めて、完全を求めて生き続ける。殻を脱ぎ捨て、自分自身を解放し、探し求めていた自分の一つのアイデンティティを受け入れる本作は内に帰していく、奇抜なルックスと反して静かに強いイメージを受ける。

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性を超越した稀代のロッカーたち。彼らは魂の咆哮を芸術に変え、どこへ還っていったのだろうか。そこは煩わしい何もかもから解放された、真に自由で永遠の場所なのだろうか。ロックに乗せたヘドウィグの旅は、不完全な私たちに全体を受け入れる強さを、目に見えなくとも強く永遠に存在する“何か”きっとそれが愛なのかもしれないが、こうしてかくと綺麗事のように聞こえるが、(笑) 教えてくれるものだった。

 

 

 

 

ゴダール『気狂いピエロ』は人生最高の映画だ

先日雑誌『東京グラフィティ』さんにお声掛け頂き、“映画好き100人が選ぶ人生最高の映画”特集で私もレビューを書いた。もう少し理性がなかったら「あと3本選んでもいいですか?」といいそうなくらい散々悩んだものの(迷惑)やっぱりこれ以外に無いということで私が選んだのはゴダールの『気狂いピエロ』。

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すごい映画だと思うし、訳の分からない映画だと思うし、初めて観たときは途中少しつまらなかった。笑 数々の書物や絵画や詩の引用で構成されている映画である。ピカソマティスルノワール。映画とは何か?サミュエル・フラーはこう語る。「映画は戦場のようだ。愛だ。憎しみだ。暴力だ。行動だ。死だ。そして感動だ。」『気狂いピエロ』は私にとって、超私的な感情に突き刺さる映画だ。自分のためにこの映画を好きな理由を書き留めておきたい。

 

反米宣言であり、アンナ・カリーナへの失恋、自分の映画監督人生についての映画であることも間違いないだろう。この映画は様々なぶつ切りの物事が詩的言語によってゆい合わされている。一見全く関係のない物事、数々の創作物も自分自身を形成しているものだ、『気狂いピエロ』作品そのもののように。

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自分は文章を書くことが好きだ。2年か3年かライターの仕事をしていた。それ以上に自分で物語や詩を書くことが好きだ。物書き、また物書きであり続けたいというのは奇妙な自我で、常に自分の文章を考えていなければならない、考えざるをえないというところがある(私はそうだ)。フェルディナンのように恋人といてもその人との間にある空間や感情、一緒に見る美しい景色をいかにまた美しい言葉で綴るか、その時のイデオロギーを、流れていく世間の出来事をどう綴るか必死に考えては、いつの間にかすぎていってしまう時間をぼんやりと眺めて1人取り残されたような気分になる。

「あなたは言葉で語る。私は感情で見つめているのに」

「君とは会話にならない。思想がない。感情だけだ」

「違うわ。思想は感情にあるのよ」

「人と人の間に存在するものや空間、音や色を書く。そこに到達すべきだ。ジョイスが試みたが、それをもっと完成させねば」

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気狂いピエロ』の結末はランボーの詩だ。空と海が溶け合う美しい青、全ての争いが終わった後に訪れる静かな永遠...恋人に愛想をつかされるまで言葉を書き続けたフェルナディンは死さえも笑いになり、マリアンヌが言った通り本当に道化になってしまった。ただ、監督のゴダールは生きている。失恋や葛藤、ピエロになったフランス、戦争するアメリカを見ながら、あの結末通り現実と虚構が溶け合う映画という永遠を作り続けている。この事実がたとえバラバラの物事が自分の内と外に広がっていようと、何とか言葉をオールにステップを踏んで行こうと考えさせられる、自分にとって最高の映画と思う理由かもしれない。

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私はゴダールの再来と呼ばれるフィリップ・ガレル監督も大好きなのだが、この2人の映画の登場人物に共通するのは(これは他の監督作品にもあると思うが)流れてゆく社会情勢を見つめながら、閉鎖的な世界で破滅という形を選ぶものであると思う。ただそれはこちらから見てみれば破滅、いわゆる死の形を選んでしまったように見えるが、本人たちからみれば望んでいたこと、肉体を捨てて自らの内に帰していく力強さを感じる。革命や動乱の波に乗れず離れて、それでも人間の生において普遍的で重要なことを求めて模索しながら繊細に生きる彼らには深い憧憬を抱かざるをえない。

 

ここまで読んでくださったみなさま、Twitterをフォローしてくださっている方、私に素敵な機会を与えてくださった東京グラフィティさん、本当にありがとうございます。これからもよろしくお願い致します。

 

Twitter @moeluvxxx 

マトリックスで学ぶ哲学ーソクラテスとネオの関係・洞窟の寓話

哲学/映画の授業で『マトリックス』がよく用いられている。この映画と『ソクラテスの弁明』『プラトンの洞窟の寓話』そしてデカルト、パトナムの『懐疑論』の関係を自分の忘備録として書きたいと思う。

ソクラテスの弁明

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始めにギリシャの哲学者、ソクラテスについて。

彼の弟子プラトンが記した『ソクラテスの弁明』はソクラテスが若者に悪影響を与えた、また無神論を唱えたという理由から裁判にかけられるところで始まる。ソクラテスは『デルポイの神託』から「ソクラテスアテナイで1番賢い男」と言われ、それが本当か否か確かめるため詩人、職人のところへ行き確かめるのだが詩人は持って生まれた才能によって詩を書くことができ、そして彼らはその詩の意味を説明することができないということで”賢い”には結びつかない。職人たちは自分の分野には詳しいものの、それによって「自分たちは他のことにも詳しい」と勘違いしてしまっていて”賢い”には結びつかないとソクラテスは判断。彼は『All I know is that know nothing』自分は賢くないということを知っている、と知るのだった。

裁判の果てにソクラテスは有罪判決をうけるけれども彼は死を恐れることは自分を賢く見せようとすることと同じであり、知識への妨害となる肉体を魂が離れ、無知を克服するために真実を認識する哲学は死への準備だと言い、死刑になる... といった内容が『ソクラテスの弁明/プラトン』である。

ネオ=ソクラテス

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マトリックス』のネオはソクラテスのような存在、と考えることができる。ソクラテスは“デルポイの神託=The Oracle of Delphi”から「お前はアテナイで1番賢い人間だ」と啓示を受ける。同様にネオも“預言者”に会いにいく。日本語字幕では“預言者”とされているが、英語ではそのまま“Oracle”なのだ。

ネオもソクラテスと同様、世の中の真実、真理ーマトリックスとは何か?を探し続けている。モーフィアスとネオの関係を考えるとソクラテスプラトンの師弟関係も彷彿とさせる。

プラトン 洞窟の寓話

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一応洞窟の寓話の概要を...

とある洞窟に捕らえられた囚人たちは、壁に映る影を“本物の現実”と勘違いして過ごしていた。ある日1人の囚人が解放され、外の世界に出た。くらい洞窟に慣れていた囚人はすぐに太陽を見ることができないが、最初に影を見て、次に水に映る物体を見、そして最後に太陽を見ることに成功する。しかしこの解放された囚人は再び洞窟に戻り、まだ捕らわれている囚人達を導いていかなければならない。

この洞窟が表しているのは私たちが今生きている世界、そして洞窟の外の世界というのは“Form”すなわち“概念”。『マトリックス』はこの『プラトンの洞窟の寓話』に最も沿ったプロットと言ってもいいかもしれない。

マトリックス=洞窟

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マトリックスはこの洞窟の寓話で言う洞窟を表す。ネオ達人間はマトリックスという仮想現実に住み、幻想=影を見ているのだ。ネオは寓話で言う解放された囚人に当たる。まず彼は白ウサギに導かれてトリニティ、モーフィアスに出会い、本当の世界=外の世界を見ることになる。彼が外の世界で目覚めるシーンでは彼の体は上に持ち上げられ、体が弱っているところから寓話によく沿っていることがわかる。ネオは真実=生きていた世界は“仮想現実”ということを知るが、再びマトリックスに戻って戦いを続けなければならない。

私たちが生きている世界もマトリックスのようなものだ。私たちは五感のレンズによって世界を見ているが、“概念=form”そのものを見ることはできない。しかしマトリックスというものが何か理解したネオが覚醒したように、見えているものだけに捕らわれず物事の本質を探索しようとする姿勢は私たちにとって大事なことに違いない。

デカルト、パトナムの懐疑論マトリックス

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私たちは夢を見ている時、その夢の内容は本物だと思うが、しかしそれは夢であり、本当の経験ではない。それと同じように今経験している出来事も“本当”なのかわからない...もしかしたら悪魔が私たちに錯覚を見せているだけなのかもしれない。フランスの哲学者デカルトは夢や幾何学を使って知識の基盤を再構築し、すべてのものを疑って、そして自分が存在している証拠を突き止めた。「I think,therefore I am(我考える、ゆえに我あり)」というやつである。

アメリカの哲学者Hilary Puthnam(ヒラリー・パトナム)もこんな説を唱えた。「神経学者がある人の脳に電気刺激を与えて脳波を操作すれば、脳はそれを現実だと勘違いして仮想現実が生み出される」これもまんま『マトリックス』の世界である。ネオたち人間は外の世界(マトリックスの外)では卵のようなカプセルに入れられ、刺激を与えられて仮想現実を見せられている。

この懐疑主義に関してはーもしこの懐疑主義が真実でなくとも、私たちは幻想を避けて真実を探し求めることについて、真実に沿って知識を確率できるように私たちは常に疑問を持ち、探索し続けることが大切だ、とデカルトから学ぶことができる。

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哲学が分かりやすく詰まった『マトリックス』はソクラテス、洞窟の寓話、デカルト、パトナムの話を踏まえてから見ると台詞や彼らのムーブメントがよく沿っていることがわかって面白い。哲学はただ学ぶだけではなく、この哲学者はこう言った、自分は賛同する、じゃあこれからどう動いていけばいいのか?と実践につなげることが大切なんじゃないかな、と思います(雑)

消えないで“映画を観る経験”、劇場文化について考える

先日ゴダールの『勝手にしやがれ』『はなればなれに』をロサンゼルスの映画館で観てきた。この劇場では約1ヶ月、土曜日にゴダール作品のリバイバル上映をするイベントを開催するらしい。

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行ってきたのはAero Theatre というサンタモニカ付近に位置するこじんまりとした映画館。私が行った日はこの2本上映で、値段は12ドル。2本観ることができるのを思うとずいぶんお手頃なのではないかと思う。客層はというとご年配の方の方が多いように感じられたが、私と同じくらいの年頃(20代)中には10代と思える男の子のグループもいて、映画が終われば皆で拍手をして、とても楽しい空間だった。何よりもゴダール作品を映画館で鑑賞するという経験が何よりも嬉しかった。

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アメリカは日本と比べ、リバイバル上映を行う映画館が多いように感じられる。小さな映画館が毎週金曜や土曜日に、イベントや“フライデー・ホラーショー”なんて題して名作の上映をしている。今ではキューブリックの『2001年宇宙の旅』上映から50周年と言うことで、キューブリック作品のリバイバルを行っているところも多い。私はこうした映画館でのリバイバル上映は映画を愛する人たちにとって素晴らしいことだと思う。映画を観る体験が簡単に、手軽になる一方で劇場文化や従来の映画の観方が少しずつ失われていくことについて考える。

“劇場文化を衰退させる”と聞くと思いつくのはやはりNetflixだ。自社でも製作を行い、観客にとってみればどこでも映画を簡単に手軽に観ることができるNetflixのサービスは便利なものに間違いない。しかし劇場公開とオンラインでの配信を同タイミングで行えば人に邪魔されず鑑賞したいという人は間違いなくネットで観るだろうし、また近くに劇場がない人も自分の家で観るだろう。かつては多くあった名画座はレンタルビデオ屋の増加によって少しずつ姿を消し、現在はネットサービスによって映画館自体が廃れていくように思える。個人的な意見として劇場文化が損なわれていくことは寂しいと思うし、“映画を観る”という概念が変わっていくような気がして、何だか居心地が悪い。これは“古い”意見だろうか、もちろん私も家でDVDをレンタルして観ることも多いが、映画は映画館で観ることが何よりも1番観客にとって、そして芸術にとって大切なことに思える。なぜなら観客はどんな映画であろうと劇場に詰め込まれれば、その作品に最初から最後まで集中して向き合わなければならないからだ。

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ネットで、DVDで映画を観るのは現代人にとってとても便利だ。劇場なら時間を合わせなければいけないが家での観賞はいつでもできる。それに、いつでも止めることができる。少し家事をしたくなったら、友人から連絡がきたら、飽きたらーーこれは果たして“映画という芸術全体”を思うと、良いことなのだろうか。簡単に作品の鑑賞を止められるということは、その映画の意味について、なぜ良かったのか、なぜつまらないと思ったのか考える習慣を薄めてしまうように思う。それは映画の作り手にとっても喜ばしくないことであると思う。観客が受け取らなかったら、良い作品は良いと、失敗作は失敗だと受け取らなければ、芸術の発展は上向きになると私は考え難い。観客にとってもその映画が自分にとってどういう効果や影響をもたらしたか考えることは自身にとって素晴らしいことだと思う。大勢の人と映画を劇場で体験し、話し合い、思考することは、映画への興味を高め、結果として芸術そのものの発展につながるのではないかと考える。

映画の始まりは、フランスのリュミュエール兄弟が発明した“シネマトグラフ”だ。兄弟は大勢の人が同じ映像を観、同じ体験をすることを目的に大型スクリーンで上映するという“映画館”を作り上げた。エジソンは逆に、映像を小さな箱に閉じ込めた“キネトスコープ”を作った。今はネットという小さな箱で映像を観るというエジソン式の“映画”が盛り返していると言えると思う。

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別に誰もかれもが映画を定期的に観なくてもいい。でも1本でも良い映画に出会い、それがその人にとって欠けていた何かを埋めるものであった時。この作品のストーリーははまらなかったけれど、衣装にしびれたと思った時。何がいいのか言葉にできないけれど、自分にとって特別だと感じた時。間違いなく素晴らしい体験であるに違いない。そしてそれはやはり真剣に向き合わなければ、なかなか得ることのできない体験でもあると思う。便利な時代、映画が身近な時代、それは良いことだが、もともとの映画体験とは何であるか、芸術と私たちの関係とは何であるか、それについて考えることが大切であると思う。そしてリュミエール兄弟が後世に残した“人々と概念の共有”という文化が受け継がれて欲しいと思う。

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【ネタバレ考察】ウェス・アンダーソン監督『犬ヶ島』はホワイトウォッシングなのか

(この記事は『犬ヶ島(Isle of Dogs)』のネタバレを含みます。)

 

ウェス・アンダーソン監督の新作ストップモーションアニメ映画『犬ヶ島(Isle of Dogs)』を一足先にアメリカで観てきた。

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アメリカで日本を舞台にした映画、画面のあちこちに漢字が現れるのは不思議な感じがしつつも少し誇らしい気持ちになった。アンダーソン監督の描く日本のディストピア未来はもちろんファンタジックだが何というかあまり違和感が感じられないものだった。時折漢字の使い方に突っ込みどころが感じられつつも、こうして見ると日本の文化はやっぱり奇妙なものだと感じさせられとても面白かった。何より海外の監督が手がける作品で“日本を舞台にした”映画は時折見かけるものの“日本人のキャラクターが登場する”映画は...あまり思いつかない!個人的に大好きなアンダーソン監督が日本を舞台に、日本人を登場させた映画を制作したのはとても嬉しかった。

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しかし幾つかの媒体でウェス・アンダーソンはホワイトウォッシングをしている」との記事を見かけた。理由は声優たちがスカーレット・ヨハンソンティルダ・スウィントンなど白人のキャストばかりだからだ。アンダーソン監督が『犬ヶ島』について最初に発表したのは確か2年ほど前、その頃は今よりも映画業界が多様性や男女格差問題について大きく触れていなかったのは事実だが、しかしもう少し熟考できなかったものかと。

 

しかし、アンダーソン監督は“わざと”白人の俳優たちを犬役に当てたのではないかと考えている。

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考えてみれば『犬ヶ島』は面白い話だ。もともと島国なのは日本、大陸に住んでいるはずの英語圏を話す者たち(日本人のキャラクターはそのまま日本語を話すが、犬たちの言語は英語に翻訳されているという設定になっている)が島流しにあっている。それは犬たちが犬インフルエンザを患い隔離されているという設定だからだ。私はこの犬たちは、現在の白人たちを表しているのでは、と思う。

 

今まで映画業界で白人の人種は大きな力を持っていたと思う。ここ最近は『スパイダーマン:ホームカミング』のようにヒスパニック系、アジア系など様々な人種に富んだ(日本語間違ってたらごめんなさい)キャスティングが行われるようになってきたが、少し前まではほぼ白人のみで固められた映画も珍しくなかった。しかしセクハラや男女差別などの問題が徐々に明るみになり、今まで強い力を持っていた特に白人男性達はバッシングを受ける立場にもなった。そして私がアメリカ(ロサンゼルス)に来て感じたことは、“白人達も差別を受ける”ということだ。人種で差別をすることは醜いことだ。今まで弱い立場にあった者たち、様々な人種が同じ権利を持っているべきだが、だからといって今までの強者と弱者の立場が逆転するのは、結局根本的な解決にはならない

 

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アンダーソン監督は映画内で多様性、様々な民族が結束することの大切さを描いていたと思う。この写真のシーン、同じ犬種の犬達とメインキャラである犬達が餌を取り合って喧嘩するのだが、様々な犬種のメインキャラの犬達が勝利する。また興味深いと思った描写は、ブライアン・クランストン演じる黒犬“チーフ”のシーンだ。チーフは劇中で文字通り“ホワイトウォッシング”されるのだ。あまりにも汚れているチーフを見かねたアタリはチーフをシャンプーしてやる。そうすると今まで黒犬だと思われていたチーフは実は白犬だったということがわかるのだ。

 

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黒人、今まで立場が弱いとされていた者、マイノリティ、その立場になった方が社会に溶け込みやすい時もある。しかし本当の自分のアイデンティティは今まで立場が強かった者、マジョリティ。それが少年によって明らかにされ、チーフがアタリという日本人少年を守るという使命に目覚める様子はちょっぴりほろりとさせられた。しかしいかにも反発をくらいそうな“洗って白くする”という描写をやってのけたアンダーソン監督はやはり、ひねくれたユーモアセンス(褒めてる)を持った人だなあとも思う。笑

そうして犬達は無事犬インフルエンザ(迫害されていた理由が解決)も治りメガサキ市に戻り、日本の人々と共存していくことができるようになる。

 

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思えばキャスティングはとても秀逸だ。日本の学校に来ているアメリカ人留学生トレーシー、彼女は犬達を迫害するメガサキ市長に抗議してアタリに協力するのだが、そんなトレーシーを演じるのは男性優位の映画界の中で、その実力で自身の作品を発表し続けている『レディ・バード』のグレタ・ガーウィグだ。映画界に新しい旋風を巻き起す彼女だからこそ、アンダーソン監督はトレーシーにグレタを起用したのではないかと思っている。

『犬ヶ島』の白人キャストの起用は意味があり、“ホワイトウォッシング”ではないというのが結論だ。見当違いだったら島流し受けます。