Bande à pierrot

ティム・バートン、テネシー・ウィリアムズ、アレハンドロ・ホドロフスキー。

私の文章に読む価値はあるか?

 

2018年、アメリカでの留学生活が始まり、よく勉強した1年だった。学校での勉強と外での勉強。たくさんの映画を観て本を読んだ。映画の考察やレビューもいろいろと書いた。以前言われたことがある。「君の文章は上手だと思うが、誰にでも書けるんだよ。」「それは読む価値がある記事なのか?」私の書いた映画に関する感想やレビューは、丁度よく賢しらな言葉でそれなりに小綺麗にまとめられた、全く読む価値に値しないものだったと今は思っている。決定的に欠けていたのは映画の歴史や技法に関する知識の欠陥もあるが、それ以上に主観的な視線だ。その映画を自分のものとして観ていなかったし、好きな理由も明確でなかった。

 

アメリカで11月に『Can You Ever Forgive Me?』という、まだ日本で公開されるか未定の映画を観た。これはセレブ達のインタビューや伝記を書いていた女性作家、リー・イスラエルの自伝に基づく映画で、彼女はセレブ達の手紙を捏造し売りさばくという罪を犯した。彼女はセレブ達に会ったこと話したことがあるからその手紙をそれらしく書くことができるわけで、加えて捏造することに罪悪感をさほど感じていないのだ。なぜなら彼女はその他人を偽って書いていることを“自分の作品を書いている”ように感じているから。もちろん途中で悪事はばれて逮捕され、騒動が終わってイスラエルはやっと自らの本を書くことができたというわけだ。いくらお金になる、それらしい文章を書くことができると言ったって、それは“自分自身の言葉ではない”誰かの人生と経験、言葉を借りて振る舞っている文章にすぎない。そんな文章がどれだけ転がっていることだろう。無自覚にも発信されていることだろう。それは私も含めて。お金や人望、社会的地位のために偽って偽って書き続けることは芸術への冒涜であるし、いくら“お上手”な文章が書けたところで作品なんて言葉にかすりもしない。また書くことだけではなく、人間は自分が主観的に見たこと、体験したこと意外に本物の意味をもたせて発言すること、それを語ることはそうそうできるものではないということだ。だってあちこちに転がる意見やイデオロギーをかいつまんで推測しているだけにすぎないのだから。

 

日本は激動の時代にあると思う。自分を含む私たち若い世代は、多くのことに気が付かぬまま、気づこうとしないまま、沈黙は発言と同じ力を持つことを理解しないまま、20歳を超えて過ごしてきてしまった。自分の国が知っている国でなくなってゆくのをアメリカから何とも言えない心持ちで見ていた。今年は約4作ほどの小説や戯曲を書いたが、出来上がって読む頃にはほとんど死んでいた。外で急速に流れてゆくもの、自分の内側で変わってゆくもの、書きたいと思っても、あまりにも多くのことがあっという間に頭と指をすり抜けてゆき、私の意気込みは次々不毛なものとなってしまった。だけれど、果たして自分は、そのたくさんの物事を、自分のこととして考えているのだろうか。考えていないならばもし書けたとしても、言葉と威勢ばかり肥大した、意味のないからっぽのものなのではないか。本物の意味を持って、悪書とならないものを作るためには、膨大な時間がかかり、経験を必要とするだろう。全く先の見えない中をまっすぐに進んで行くのは時折怖くなるけれど、焦燥感を捨てることができたこと、それはこの1年で自分の成長かと思っている。

 

映画という大きな存在に対して考えを巡らせた一年でもあった。ゴダールは彼の映画史の中でいう。「映画は人間の欲望に叶うように置き換えられた世界だ。映画は娯楽産業でも情報産業でもなく死と性に憑かれた化粧品産業、仮面の産業なのだ。映画は物語を語る、映画は歴史を変えて信じろという。」ヌーヴェルバーグの旗手たちが集ったカイエ・デュ・シネマの創設者アンドレ・バザンは「芸術は民衆を解放する手段だ」と語る。映画は、虚構を通じて、現実と対峙させる手段だ。社会でもいい、個人の問題でもいい、芸術家が作った、時の止まった世界を通して、動き続けるこの現実の世界と向き合う手段だ。映画の中の人物たちの目線と観客である私たちの目線が重なり、新たな出発地が生まれることがある。虚構の中に自分の現実を見つける瞬間がある。第七芸術である映画を今、そんな力強いものだと信じている。だから私もこれから作りたい。いくら時間がかかっても良い。

 

長くなったが最後に記録として。今年一番観た映画はヴィム・ヴェンダースの『パリ、テキサス』だった。バックミラー越し、マジックミラー越しに愛する者を見つめ、最後は密着することが叶わないまま1人また旅立つ男の物語。アメリカから日本、液晶画面越しに相手を見つめ、沈むほど声を聞こうとし、自分にかかった靄越しに見つめることもあり、これからカメラのレンズ越しに相手を見ることもあるだろう。女として、映画製作者を目指す者として、ものを書く者として、場合により異なる自我で見つめることがあるだろう。だが映画と違い私は密着することも今は叶う、ならそんなことは全て忘れて、今あるその瞬間に体を全て預けることの愛おしさ、それも最も幸福なことだと感じた一年だった。その時に感じる心が、映画だろうが戯曲だろうが小説だろうが何だっていい、本物の言葉が詰まった作品を作るエネルギーともなるだろうと思った。

 

 

 

駆け抜けて性春

「そのときぼくは、とても作家にはなれないと思いました。だってデイジー・ハニガンとこの十分間に感じた幸せを、ぼくはどんな言葉を使ってもとうてい表現できないからです。」

 

夏に続いて再び東京グラフィティさんに文章を載せて頂いた。今回はレギュラー企画“カルチャー好きに聞く”、お題は“好きな相手に愛を伝える美しい台詞” 伺った時に喉から照れて変な声が出てしまった。笑 真っ先に、というよりこれ以外に私が選びたい台詞は思いつかなかった。2018年に亡くなった偉大な戯曲家ニール・サイモンの作品、『ビロクシー・ブルース』より。

これは作者ニール・サイモンの自伝的作品である。舞台は第二次世界大戦下、新兵訓練キャンプ。主人公ユジーンは戦争中に三つの目標を達成することを誓った。それは作家になること、生き残ること、そして童貞を捨てること!キャンプで出会った個性豊かな新兵たちと異なる価値観を共有し、時には衝突し、そして出会った淡い初恋...この台詞はユジーンが初めて恋心を抱き、彼女とお別れしなければならない時に発せられる台詞だ。もう直ぐ死と隣合わせの戦場に赴くというときに出くわした初恋、自分の中に湧き上がる胸が苦しいほどの愛おしさと切なさに彼はひれ伏し、まだこの感情を書き並べ洗わせるほどの言葉を自分は持っていないんだと絞り出すのだ。しかしユジーン...ニール・サイモンは生き残り、作家になった。仲間たちが次々と戦地に足をすくい取られていくのを見、『ビロクシー・ブルース』を書いた。この戯曲は決して難解な言葉が並べられたものではない。等身大の若者たちの言葉で構築され、その言葉に宿る感情がすべて真実であるからこそ胸をうち、笑顔にさせ、涙させる。

 

そして、当然のことながら、私はこんな経験をしたことはないから、この台詞を彼に送るわけにはいかない。笑 というか、図々しい。笑 ただ作家になりたい、物書きになりたいと考え毎日文章をノートに綴っている若者が、恋愛感情を前にああだめだ、こんな瞬間書けるわけがないよと手を握りしめてため息をつく、その瞬間と彼の幸福とある種の落胆、それがシンプルな文句とともに伝わってくるこの台詞はこれからもずっと特別だと思う。小説家になりたい。私も毎秒毎日そう思い、書いている最中だから。

 

恋愛のことをを例えばSNSなど友人以外も閲覧できるような場所で書くのは妙な気持ちになるし、恋愛は本当に“私とあなた”が満足し幸せを感じているならそれで良い、社会の風潮やらこんな彼氏彼女がいいやら全く気にすることではないと思うから、恋愛のエピソードを含めるのは不思議な気持ちだったけれど、自分の恋愛とこの台詞を選んだ感情を照らし合わせて考えるのは面白い経験だった。「ぼくは作家にはなれないと思いました。」全くドラマチックな世界には生きていない。朝起き、電話をし、彼は眠る。私は学校に行く。彼が目をさます。おはよう。私は眠る。いきなり持ち物に大金が入ってたとか、二人でメキシコやらフランスに行くやら、そんなことは起こらない。彼を見ていると、私はゆっくりとでも書き続けようと思う。ただそれでも、時折彼の姿を思い浮かべると、やはり余計な言葉はいらないような、いくら並べたところで結局ただ一つの言葉に収束してしまうような...そんな消失と衝動を繰り返しながら現実の生活は続いていくんだろう。このブログいつか絶対消す。笑

 

1日早く生まれれば手塚治虫と同じ誕生日だったのに

2018年11月4日で23歳になる。これからボヘミアン・ラプソディーを観にいくのだがバスを待つ間にこれをメモ帳に書いている。毎年のことだが一つ年が増える実感はまったく無い。去年の誕生日は確か前日にノクターナル・アニマルズを観にいったせいで一日その映画について考えていたためまったく覚えていない...

 

22歳はまだほんの20年少ししか生きていないものの人生が変わってゆく節目の年の一つであったことは間違いない。自分がアメリカに来て、大好きな映画に携わって生きていくために本格的に勉強する道を選ぶとは思っていなかった。今までの仕事をやめたことや、友人たちが社会にでたことに対する焦燥は直に消えた。漠然と知っていたことを明確に知ること、今の芸術の根本を学ぶことが何よりも穏やかにしてくれたし、満足させてくれた。

 

アメリカに来て変わったことは、あんまり無い。日本と生活はあまり変わらない。もちろん日本の友達もいなければ家族も一緒にすんでいないし猫にも触れないしツタヤも渋谷も原宿も下北もないけれど、映画をみて本を読んで、友達とは電話をして、書いて勉強して過ごしている。こちらの生活はすぐに慣れたように思う。

 

自分に向き合う時間は多すぎるほどに多かった。一月は学校も始まっていなかったため毎日1人、1日一回は外にでて、映画をみて、ひとと電話をして、物語を書いたり、構想を考えたり、とりあえず映画をみて過ごした。笑 日本がどんどん変わっていくのを画面の中でずっと観ていた。さまざまな人が政治を話すのを、リベラルを語るのを、LGBTQについて考えるのを、日本という国の根本にある改善されるべき部分を話すのを見たし、ハリウッドが変わるのを、イデオロギーを照らした映画が生まれるのを、多様な人種が暮らすここで見ていた。それに対して自分の意見はうまれたし、今は声があがるとき、あげるべき時なのだろうとも考えた。それでも個人的に、私の何かに向けられる情熱や激しい好奇心、憧憬のようなものはいつも絶え間無く動いている大きなエネルギーの流れからは離れたところ、もしくは自分の内側のみに向けられているように思えた。それをぼんやりとだが淡々と考えた歳でもあった。視野を広げ、議論されるべき話題がたくさんある時代、私はただただ自分だけの中に広がる、収拾のつかない混乱、漠然とした悩みに引っ張られ、簡単に言えば興味を持つことができず、さて、何を探して、何を相手に戦っているのだろう。これは無知が原因なのだろうか。それとも単純に、無関心な人間なのだろうか。そんなものなのだろうか。22歳はまあ、決して多いとは言えないが物語やら詩やらを書いた歳だった。読み返してみると似たり寄ったりで、ひどく個人的なものだった。おそらく人の為に何かを、という動機は欠けているのだと思う。ただそれは自然に発生するものであって、作り出した動機で書いてもきっと仕方がない。23歳の年は変わるかどうかも分からない。

 

書く。気狂いピエロから引用すれば人と人の間に存在する空間や色を書く。それが徒労に感じられる作業であっても、出来上がった時に屑になっていても、ひたすら毎日物を書く。断片的なイメージをできる限りの言葉を手繰り寄せ、1つの物語にする。この歳も22歳と同じ、その作業に取り組むだろうし、今何を1番求めますか、何を1番したいですかと聞かれれば、これ以外いつも思いつかない。知識が増え、世界がさらに広がればスタイルも変わるかもしれないし、書く内容も変わるかもしれない、それでもまた、内面的な、小さな世界の物語に変わるかもしれない。それでも、外から得る知識を噛み砕きつつ、それがただ数字に現れる成果としてではなく、実践へ移せるように。どんなものでも自分が信じるものの中で戦えるように、時々は手足を伸ばしながら、過ごしていきたい。

 

[追記]

ボヘミアン・ラプソディ見終わったんだが劇中でハッピーバースデーを歌うシーンがあって、なんでこれを誕生日当日に選ばなかったんだろう...

 

 

 

考察/感想『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』プラトンとロックと愛

ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』を観た。近年では『パーティーで女の子に話しかけるには』を発表したジョン・キャメロン・ミッチェルが監督、脚本、主演を務めた映画である。もともとはオフブロードウェイで上演されていた舞台を映像化したそうだ。「今この時にこの作品に出会えてよかった」という、準備されていたかのように手にとった映画がぴったりとはまって余韻から抜け出せなくなるこの感覚、だから映画好きはやめられない....

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性転換手術を受けたものの股間に“怒りの1インチ”が残ったロックシンガーの主人公ヘドウィグが故郷ベルリンを離れアメリカに渡り、自分の“片割れ”を探し続ける。別れた恋人トミーは自分の曲を盗んでトップに上り詰めたと今では裁判問題。ヘドウィグが探し続けるものはどこにあるのか、見つかるのかと言う物語である。パワフルな声でヘドウィグが自分の軌跡と感情を歌い上げる。

本作のエンディングでありテーマでもある歌『Origin of Love』のベースは哲学者プラトンの『饗宴』だ。これはプラトンが残した「対話篇」で、詩人アガトンが催した宴にプラトンの師ソクラテスが招かれ、そこにいる者たちと愛について話を繰り広げるというものである。

かつて人間は一人二組で、四本の手足を持っていた...という下りから歌詞は始まる。それは愛が生まれる前の物語。男同士が太陽の子、女同士は大地(地球)の子、そして月の子は男性と女性の間の子。しかし人間の不敵さに恐れをなした神々が彼らを引き裂いてしまった。だからというものは引き裂かれた自分の片割れを探し、元どおり一つになりたいと言う感情。それが『Origin of Love』の内容である。『饗宴』をベースにしているもののインドの神やオシリス、ナイルの神まで現れることから大きく飛躍していることが分かる。

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ヘドウィグが歩んできた人生。故郷を離れ、アメリカに渡るために性転換手術をした。男性器を捨て海を超えたものの、相手の男には捨てられた。自分を奮い立たせるためにウィッグをかぶり、メイクを施した。そこで運命の相手だと信じたい、心から愛した相手と出会う。それがトミーだ。しかし彼はヘドウィグの“怒りの1インチ”まで愛することができず、ヘドウィグから音楽の知識を吸収し、曲を奪って去って行ってしまった。そしてヘドウィグは“夫”のイツハクに強くあたりながら、売れずにロックミュージシャンとして過ごしている。そのあとひょんなことからヘドウィグは注目を浴びることになるのだが...

 

結論から言うと、片割れだと信じたかったトミーは、片割れではなかったのだ。自分がずっと追ってきたものは、片割れと思っていたものは、最後ヘドウィグがトミーと同じ格好をしているのをみると、それは自分の影だったのだ。そしてヘドウィグはカツラも、メイクも、ファッションも脱ぎ捨てて、その鎧が無くても自分自身を受け入れることができるようになった。得るために何かを捨てたり、守るために何かを身につけたり...アイデンティティを模索し続けていたヘドウィグは自分の影/片割れと統合することにより、もうすでに“完全”だと知ることができた。トミーを見ながら涙するヘドウィグ/キャメロン監督の姿はあまりに哀切で美しかった。

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最後何も身につけず夜道をよろよろと歩いていくヘドウィグ。ヘドウィグはその後、“片割れ”探しではなく、今の自分の姿のまま、相手もそっくりそのまま愛することができる道を歩んでいくのだろう。ヘドウィグは現在の夫であるイツハクにはひどい仕打ちをしていた。しかし最後彼にウィッグを与え、イツハクは喜びの涙を流した。自身も不遇な時代を辿ったものの、実力があるイツハクをヘドウィグは抑圧していたのだ。人を失った虚無感、欠落感からそばにおいておいたイツハクを自由にする。それができたからこそ、ヘドウィグは次こそ“全体”の自分で“全体”の相手を愛せるのではないか、と思う。

プラトンの『饗宴』“愛の起源”の話に戻るが、この“1つになる”、元の形というのは魂のことなのだろう。人生で探し続ける様々な“何か”、それは自分がもともと持っていたものであり知っていたものなのかもしれない。そして紆余曲折を経て、生と死を終えそれも統合され、“魂”という形で存在し続ける。『ガタカ』や『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』をみると、ふとイデア論のことを思う。『洞窟の寓話』じゃないが愛、美、正義、イデアは目に見えるものではない。だが目に見えなくとも“真実”を求めて、完全を求めて生き続ける。殻を脱ぎ捨て、自分自身を解放し、探し求めていた自分の一つのアイデンティティを受け入れる本作は内に帰していく、奇抜なルックスと反して静かに強いイメージを受ける。

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性を超越した稀代のロッカーたち。彼らは魂の咆哮を芸術に変え、どこへ還っていったのだろうか。そこは煩わしい何もかもから解放された、真に自由で永遠の場所なのだろうか。ロックに乗せたヘドウィグの旅は、不完全な私たちに全体を受け入れる強さを、目に見えなくとも強く永遠に存在する“何か”きっとそれが愛なのかもしれないが、こうしてかくと綺麗事のように聞こえるが、(笑) 教えてくれるものだった。

 

 

 

 

ゴダール『気狂いピエロ』は人生最高の映画だ

先日雑誌『東京グラフィティ』さんにお声掛け頂き、“映画好き100人が選ぶ人生最高の映画”特集で私もレビューを書いた。もう少し理性がなかったら「あと3本選んでもいいですか?」といいそうなくらい散々悩んだものの(迷惑)やっぱりこれ以外に無いということで私が選んだのはゴダールの『気狂いピエロ』。

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すごい映画だと思うし、訳の分からない映画だと思うし、初めて観たときは途中少しつまらなかった。笑 数々の書物や絵画や詩の引用で構成されている映画である。ピカソマティスルノワール。映画とは何か?サミュエル・フラーはこう語る。「映画は戦場のようだ。愛だ。憎しみだ。暴力だ。行動だ。死だ。そして感動だ。」『気狂いピエロ』は私にとって、超私的な感情に突き刺さる映画だ。自分のためにこの映画を好きな理由を書き留めておきたい。

 

反米宣言であり、アンナ・カリーナへの失恋、自分の映画監督人生についての映画であることも間違いないだろう。この映画は様々なぶつ切りの物事が詩的言語によってゆい合わされている。一見全く関係のない物事、数々の創作物も自分自身を形成しているものだ、『気狂いピエロ』作品そのもののように。

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自分は文章を書くことが好きだ。2年か3年かライターの仕事をしていた。それ以上に自分で物語や詩を書くことが好きだ。物書き、また物書きであり続けたいというのは奇妙な自我で、常に自分の文章を考えていなければならない、考えざるをえないというところがある(私はそうだ)。フェルディナンのように恋人といてもその人との間にある空間や感情、一緒に見る美しい景色をいかにまた美しい言葉で綴るか、その時のイデオロギーを、流れていく世間の出来事をどう綴るか必死に考えては、いつの間にかすぎていってしまう時間をぼんやりと眺めて1人取り残されたような気分になる。

「あなたは言葉で語る。私は感情で見つめているのに」

「君とは会話にならない。思想がない。感情だけだ」

「違うわ。思想は感情にあるのよ」

「人と人の間に存在するものや空間、音や色を書く。そこに到達すべきだ。ジョイスが試みたが、それをもっと完成させねば」

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気狂いピエロ』の結末はランボーの詩だ。空と海が溶け合う美しい青、全ての争いが終わった後に訪れる静かな永遠...恋人に愛想をつかされるまで言葉を書き続けたフェルナディンは死さえも笑いになり、マリアンヌが言った通り本当に道化になってしまった。ただ、監督のゴダールは生きている。失恋や葛藤、ピエロになったフランス、戦争するアメリカを見ながら、あの結末通り現実と虚構が溶け合う映画という永遠を作り続けている。この事実がたとえバラバラの物事が自分の内と外に広がっていようと、何とか言葉をオールにステップを踏んで行こうと考えさせられる、自分にとって最高の映画と思う理由かもしれない。

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私はゴダールの再来と呼ばれるフィリップ・ガレル監督も大好きなのだが、この2人の映画の登場人物に共通するのは(これは他の監督作品にもあると思うが)流れてゆく社会情勢を見つめながら、閉鎖的な世界で破滅という形を選ぶものであると思う。ただそれはこちらから見てみれば破滅、いわゆる死の形を選んでしまったように見えるが、本人たちからみれば望んでいたこと、肉体を捨てて自らの内に帰していく力強さを感じる。革命や動乱の波に乗れず離れて、それでも人間の生において普遍的で重要なことを求めて模索しながら繊細に生きる彼らには深い憧憬を抱かざるをえない。

 

ここまで読んでくださったみなさま、Twitterをフォローしてくださっている方、私に素敵な機会を与えてくださった東京グラフィティさん、本当にありがとうございます。これからもよろしくお願い致します。

 

Twitter @moeluvxxx 

マトリックスで学ぶ哲学ーソクラテスとネオの関係・洞窟の寓話

哲学/映画の授業で『マトリックス』がよく用いられている。この映画と『ソクラテスの弁明』『プラトンの洞窟の寓話』そしてデカルト、パトナムの『懐疑論』の関係を自分の忘備録として書きたいと思う。

ソクラテスの弁明

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始めにギリシャの哲学者、ソクラテスについて。

彼の弟子プラトンが記した『ソクラテスの弁明』はソクラテスが若者に悪影響を与えた、また無神論を唱えたという理由から裁判にかけられるところで始まる。ソクラテスは『デルポイの神託』から「ソクラテスアテナイで1番賢い男」と言われ、それが本当か否か確かめるため詩人、職人のところへ行き確かめるのだが詩人は持って生まれた才能によって詩を書くことができ、そして彼らはその詩の意味を説明することができないということで”賢い”には結びつかない。職人たちは自分の分野には詳しいものの、それによって「自分たちは他のことにも詳しい」と勘違いしてしまっていて”賢い”には結びつかないとソクラテスは判断。彼は『All I know is that know nothing』自分は賢くないということを知っている、と知るのだった。

裁判の果てにソクラテスは有罪判決をうけるけれども彼は死を恐れることは自分を賢く見せようとすることと同じであり、知識への妨害となる肉体を魂が離れ、無知を克服するために真実を認識する哲学は死への準備だと言い、死刑になる... といった内容が『ソクラテスの弁明/プラトン』である。

ネオ=ソクラテス

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マトリックス』のネオはソクラテスのような存在、と考えることができる。ソクラテスは“デルポイの神託=The Oracle of Delphi”から「お前はアテナイで1番賢い人間だ」と啓示を受ける。同様にネオも“預言者”に会いにいく。日本語字幕では“預言者”とされているが、英語ではそのまま“Oracle”なのだ。

ネオもソクラテスと同様、世の中の真実、真理ーマトリックスとは何か?を探し続けている。モーフィアスとネオの関係を考えるとソクラテスプラトンの師弟関係も彷彿とさせる。

プラトン 洞窟の寓話

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一応洞窟の寓話の概要を...

とある洞窟に捕らえられた囚人たちは、壁に映る影を“本物の現実”と勘違いして過ごしていた。ある日1人の囚人が解放され、外の世界に出た。くらい洞窟に慣れていた囚人はすぐに太陽を見ることができないが、最初に影を見て、次に水に映る物体を見、そして最後に太陽を見ることに成功する。しかしこの解放された囚人は再び洞窟に戻り、まだ捕らわれている囚人達を導いていかなければならない。

この洞窟が表しているのは私たちが今生きている世界、そして洞窟の外の世界というのは“Form”すなわち“概念”。『マトリックス』はこの『プラトンの洞窟の寓話』に最も沿ったプロットと言ってもいいかもしれない。

マトリックス=洞窟

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マトリックスはこの洞窟の寓話で言う洞窟を表す。ネオ達人間はマトリックスという仮想現実に住み、幻想=影を見ているのだ。ネオは寓話で言う解放された囚人に当たる。まず彼は白ウサギに導かれてトリニティ、モーフィアスに出会い、本当の世界=外の世界を見ることになる。彼が外の世界で目覚めるシーンでは彼の体は上に持ち上げられ、体が弱っているところから寓話によく沿っていることがわかる。ネオは真実=生きていた世界は“仮想現実”ということを知るが、再びマトリックスに戻って戦いを続けなければならない。

私たちが生きている世界もマトリックスのようなものだ。私たちは五感のレンズによって世界を見ているが、“概念=form”そのものを見ることはできない。しかしマトリックスというものが何か理解したネオが覚醒したように、見えているものだけに捕らわれず物事の本質を探索しようとする姿勢は私たちにとって大事なことに違いない。

デカルト、パトナムの懐疑論マトリックス

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私たちは夢を見ている時、その夢の内容は本物だと思うが、しかしそれは夢であり、本当の経験ではない。それと同じように今経験している出来事も“本当”なのかわからない...もしかしたら悪魔が私たちに錯覚を見せているだけなのかもしれない。フランスの哲学者デカルトは夢や幾何学を使って知識の基盤を再構築し、すべてのものを疑って、そして自分が存在している証拠を突き止めた。「I think,therefore I am(我考える、ゆえに我あり)」というやつである。

アメリカの哲学者Hilary Puthnam(ヒラリー・パトナム)もこんな説を唱えた。「神経学者がある人の脳に電気刺激を与えて脳波を操作すれば、脳はそれを現実だと勘違いして仮想現実が生み出される」これもまんま『マトリックス』の世界である。ネオたち人間は外の世界(マトリックスの外)では卵のようなカプセルに入れられ、刺激を与えられて仮想現実を見せられている。

この懐疑主義に関してはーもしこの懐疑主義が真実でなくとも、私たちは幻想を避けて真実を探し求めることについて、真実に沿って知識を確率できるように私たちは常に疑問を持ち、探索し続けることが大切だ、とデカルトから学ぶことができる。

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哲学が分かりやすく詰まった『マトリックス』はソクラテス、洞窟の寓話、デカルト、パトナムの話を踏まえてから見ると台詞や彼らのムーブメントがよく沿っていることがわかって面白い。哲学はただ学ぶだけではなく、この哲学者はこう言った、自分は賛同する、じゃあこれからどう動いていけばいいのか?と実践につなげることが大切なんじゃないかな、と思います(雑)

消えないで“映画を観る経験”、劇場文化について考える

先日ゴダールの『勝手にしやがれ』『はなればなれに』をロサンゼルスの映画館で観てきた。この劇場では約1ヶ月、土曜日にゴダール作品のリバイバル上映をするイベントを開催するらしい。

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行ってきたのはAero Theatre というサンタモニカ付近に位置するこじんまりとした映画館。私が行った日はこの2本上映で、値段は12ドル。2本観ることができるのを思うとずいぶんお手頃なのではないかと思う。客層はというとご年配の方の方が多いように感じられたが、私と同じくらいの年頃(20代)中には10代と思える男の子のグループもいて、映画が終われば皆で拍手をして、とても楽しい空間だった。何よりもゴダール作品を映画館で鑑賞するという経験が何よりも嬉しかった。

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アメリカは日本と比べ、リバイバル上映を行う映画館が多いように感じられる。小さな映画館が毎週金曜や土曜日に、イベントや“フライデー・ホラーショー”なんて題して名作の上映をしている。今ではキューブリックの『2001年宇宙の旅』上映から50周年と言うことで、キューブリック作品のリバイバルを行っているところも多い。私はこうした映画館でのリバイバル上映は映画を愛する人たちにとって素晴らしいことだと思う。映画を観る体験が簡単に、手軽になる一方で劇場文化や従来の映画の観方が少しずつ失われていくことについて考える。

“劇場文化を衰退させる”と聞くと思いつくのはやはりNetflixだ。自社でも製作を行い、観客にとってみればどこでも映画を簡単に手軽に観ることができるNetflixのサービスは便利なものに間違いない。しかし劇場公開とオンラインでの配信を同タイミングで行えば人に邪魔されず鑑賞したいという人は間違いなくネットで観るだろうし、また近くに劇場がない人も自分の家で観るだろう。かつては多くあった名画座はレンタルビデオ屋の増加によって少しずつ姿を消し、現在はネットサービスによって映画館自体が廃れていくように思える。個人的な意見として劇場文化が損なわれていくことは寂しいと思うし、“映画を観る”という概念が変わっていくような気がして、何だか居心地が悪い。これは“古い”意見だろうか、もちろん私も家でDVDをレンタルして観ることも多いが、映画は映画館で観ることが何よりも1番観客にとって、そして芸術にとって大切なことに思える。なぜなら観客はどんな映画であろうと劇場に詰め込まれれば、その作品に最初から最後まで集中して向き合わなければならないからだ。

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ネットで、DVDで映画を観るのは現代人にとってとても便利だ。劇場なら時間を合わせなければいけないが家での観賞はいつでもできる。それに、いつでも止めることができる。少し家事をしたくなったら、友人から連絡がきたら、飽きたらーーこれは果たして“映画という芸術全体”を思うと、良いことなのだろうか。簡単に作品の鑑賞を止められるということは、その映画の意味について、なぜ良かったのか、なぜつまらないと思ったのか考える習慣を薄めてしまうように思う。それは映画の作り手にとっても喜ばしくないことであると思う。観客が受け取らなかったら、良い作品は良いと、失敗作は失敗だと受け取らなければ、芸術の発展は上向きになると私は考え難い。観客にとってもその映画が自分にとってどういう効果や影響をもたらしたか考えることは自身にとって素晴らしいことだと思う。大勢の人と映画を劇場で体験し、話し合い、思考することは、映画への興味を高め、結果として芸術そのものの発展につながるのではないかと考える。

映画の始まりは、フランスのリュミュエール兄弟が発明した“シネマトグラフ”だ。兄弟は大勢の人が同じ映像を観、同じ体験をすることを目的に大型スクリーンで上映するという“映画館”を作り上げた。エジソンは逆に、映像を小さな箱に閉じ込めた“キネトスコープ”を作った。今はネットという小さな箱で映像を観るというエジソン式の“映画”が盛り返していると言えると思う。

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別に誰もかれもが映画を定期的に観なくてもいい。でも1本でも良い映画に出会い、それがその人にとって欠けていた何かを埋めるものであった時。この作品のストーリーははまらなかったけれど、衣装にしびれたと思った時。何がいいのか言葉にできないけれど、自分にとって特別だと感じた時。間違いなく素晴らしい体験であるに違いない。そしてそれはやはり真剣に向き合わなければ、なかなか得ることのできない体験でもあると思う。便利な時代、映画が身近な時代、それは良いことだが、もともとの映画体験とは何であるか、芸術と私たちの関係とは何であるか、それについて考えることが大切であると思う。そしてリュミエール兄弟が後世に残した“人々と概念の共有”という文化が受け継がれて欲しいと思う。

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